だから、棄てれない。

今日は「ラカン入門」を読んでいた。
クロスカップにはかなり困ったけど、YouTubeに図形のアニメーションがあり、一気にわかって助かった。本に書いてある図形じゃ本当に意味不明だった笑
ラカンは一日一時間までだなと思う。実際はそれ以上に読むことになるが、それぐらいの気持ちじゃないとキャパオーバーになってしまう。
むしろ読んでないときに、例えば、シャワーのときとかにすんなり整理されたりするし、付き合い方が大事だ。

ここ二週間ぐらい父親が金曜、土曜日にいつものスナックに行っていない。
こんなことは今までなかったのですごい不気味だ。
スナックのおばさんからの電話も来てないように思う。なんだか気持ち悪いな。

明日はヨガ再開しようと思う。
体調は6.5割ぐらいな感じやけど、運動をすればどんどん調子が上がっていくかもしれない。

ラカン入門」で「苦しい症状を棄てれないのは、その原理に享楽も得ているからだ」みたいなことが書いてあった。
そして、享楽を得ている、症状から得をしていることは分析で出ずらいと、、。
金閣寺」の登場人物たちも自分自身の内翻足や吃音に不快と快を得ていたように思う。
俺の場合は、、、俺の苦しみのひとつに強迫観念というか心配性というか被害妄想的というか、、、どれかひとつの言葉で表すと違う気がするのでめちゃくちゃ重ねてしまうのがそういう感じのがある。
その原因は母親の癖が移ったということだったり、幼少期の親の家庭内での不安定、無秩序による世界をルール付けているものへの不信だったりがあるように思っている。
俺は「極小の可能性レベルのルート」から真実味のある不安、恐怖を感じる。

そこにラカンの理論が乗っかって思いついてしまった。
俺は「極小の可能性レベルのルート」から真実味のある享楽も感じる、ということだ。
具体的に書くのは恥ずかしいからそこそこにしておくけど、こんなことがあったからあの人は俺のことが好きかもしれない、とか、
こんなことがあったから色々あって色々あって告白されるかもしれない!とか、、、
思い起こせば、俺は本当にときどきやけど、自分のポジティブな妄想を笑い話で人に話したときに「本当に能天気でいいな~」みたいなことを言われてきている。
そういうことは誰でもあると思うけど、何か俺は一線画す能天気さがあると思う。その反面、ちょっとしたことから不安、恐怖に反転してしまう。

これが正しいとして、なぜ俺はこの能天気すぎる妄想による享楽を棄てれないのか。
あまりパッとしたのが思いつかへんけど、例えば、家庭内が最悪だったときに、能天気な妄想でしか自分を救えなかったとか、親の愛情を受けていると妄想するしかなくて、それが今でも尾を引いているのかもしれない。

流れよく語れないけど、
精神病における「永遠の少年症候群」みたいなのを思い出す。奮起と絶望を繰り返すとかのやつ。詳しくは忘れた。
それと、幼少期のとき、アパートが密集したところに住んでいたんやけど、その時に向かいの棟に住んでいる友達に自分がなったらどうなるんやろうという妄想をしていたのを思い出す。