ヨガマスター見参

今日のヨガのクラスは激しいやつだ。
部屋の最前列に見かけたことがないヨガをしてそうなおじさんがいた。
細長くて髪型が坊主に近くてマイワールドに入ってる感じの人。
服装もなにかそれっぽい感じで、ヨガマットも明らかに高級感があった。
ヨガが始まると尋常ではない完成度だった。先生ではなくほとんどその人を見ていたが、ちょっとしたポーズでもカカトを上げたりしていて、難易度を上げてしていた。
男の人でめちゃくちゃうまいヨガを見るのは初めてだったので驚いた。身体も長いので迫力がすごい。

帰り際になんと、昔に一緒に働いていたパートのおばちゃんがいた。
なにかのキャンペーンをしていたのでそれで仮入会したそうだ。その人とは近所ということは知っていて、半年に一回ぐらいスーパーでばったり会うこともあった。
働いていたときからけっこう好きだったのでそこまで気まずさは感じなかった。
なにかこういうときは気まずさを感じがちだ。
この人は今でも現役パートの人たちと連絡を取っていているらしいので、そのうち俺がヨガをしていることがバレるかもしれない。
ちょっと恥ずかしいな。

先日、いつものスーパーで購入した食品を袋に入れているとき、なんの気なしに壁に貼ってあるチラシに目をやったらエキストラバージンオリーブオイルが破格で売る告知があった。
俺はエキストラバージンオリーブオイルを信仰していて、なんとなくこれだと太らない感覚がある。
しかし、かなり高い。それもここ最近値段が高騰しまくっている。
昔はアマゾンで1000mlで900円程度だった。現在は1700円だ。本当にやばすぎる。
今回のは475mlで650円だった。
今日がセールの日で、とにかく安いという計算だけして三本まとめ買いしたが、書いてみるとそこまで破格ではないな。。。
野菜売り場では月一回のセールの日らしく、線の細い女性が、
「さぁー今日は月に一度の野菜市、こうてってよーこうてってよー」と声出しをしていた。
商店街で野太い声のおばちゃんがよくこういう声出しをしているが、張ってるものの細い女性の声だとなにか面白かった。

最近の重要な気付きで、、、というか今までも何回か書いていたが、、、
つまりどういうことかと言うと、ドバイ旅行で友人に何をどう話すべきかということで悩んでいて、それをカウセリングで相談していたのだが、
どういう流れからだったか忘れてしまったけど、自分が一回に全てを賭けすぎていることに気付いた。
その告白の一回で全てを話し、生死を決するみたいな世界観というか、、、
しかし、実際はそうはならないで、ドバイでの告白?はこれから数ある会話の”第一回”に過ぎないと思う。
これからも繋がり続けて何度もおりを見て話すことになるだろう。
ラカンにおける精神病者は世界崩壊体験妄想みたいなのがあるらしく、それの軽いバージョンだと思う。
おれのエイズ感染即死妄想もそうだと思う。(滑稽だが本当に怖い)

こういった原因をまたもう一度考えてみる。思いつくのは二つで、
「言葉が通じないという世界観」、「繋がり続けられないで破局するという世界観」があると思う。

両方とも両親に起因していて、中学生ぐらいから言葉が通じない絶望感、、、でもないか、、
言葉が通じない世界に順応するようになっていたと書いたほうがしっくりくるかもしれない。
なんというか、、ちょっとでも現実に影響を与える実際的なことを言うと単語一つを取り上げてそこからずっと暗い感情をぶつけられていた。(例えば、弁当を洗っていておいてほしい、これで朝から深夜二時、つまり体力の限界まで説教されることもある。意味不明だと思うが、、)
こういったことにより、言葉を機能的に扱うことはかなり危険なことで破局的場面へ飛び込むことかのように思えてしまう。

投影先としての幼さを押し付けられつつ、親としての役割をも担わされていたとも言えるかもしれない、、それはまた別の話で、、

「繋がり続けられない」というのは、、、これも最近の発見なのだが、俺はけっこうよく頻繁に絶縁的な脅し文句を言われていたと思う。
普通だと思っていたけど冷静に考えればおかしい、、、よな?
未だに判断がつかないのは俺の親が異常だとしても普通の親でも怒ったときに俺の親の半分ぐらいの頻度で感情にまかせて「捨てるぞ」とか「生むんじゃなかった」とか言ってうのかなと思ってしまう。
書いていて思ったけど、俺が親に言われてきた暴言がいまいち思い出せない。無限にあるのはたしかなはずやけど、思い出せない。

文章がごちゃごちゃになってて申し訳ない。探り探り書いている。
加えて、母も父も親との繋がりが不安定だというのもあると思う。

言われた暴言が思い出せないというのは新たな発見だな。。
書きながら着地点を見失ってしまった。

今日はよく寝れた。
雑事がいろいろと片付いたのでやっっっと読書再開できそうだ。

追記:
さらに重要かもしれへんことを思いついた。
「一発勝負の世界観」や「世界崩壊体験妄想」などをやわらげてくれるのが「言葉は通じるんだ」とか「繋がりは続くんだ」という安心感なんだ、と上の文章では書いていた。(たぶん支離滅裂やったと思うけど)
この「言葉は通じる」とか「繋がりは続く」というのはもしかして東浩紀の「訂正可能性の哲学」なんちゃうんか?