一秒ごとに自分でいることが大変

模試からほとんど勉強をしていない。巨大中国人と銭湯に行きネガティブなことをたくさん言われて一気にやる気を失った。
そこからなにもかもが崩れてしまっている。それは勉強習慣だけでなく、自分でいることすらも難しくなっていると感じている。

勉強をはじめるあたってはおれはすごい慎重だった。行ったらもうもとに戻れないような感覚。箱庭を目の前にしてひとつ置き始めるともうあとに戻れない感覚に似ている。
その慎重さはいいことだった。慎重にこころの準備をしたので、おれは勉強で生活を崩しながら、いろんな嫌なことにも耐え自分を保ち続け勉強をしていた。

俺は何において俺たらしめているのか。何をもってして一秒進めばそれは一秒前の自分を引き継いでおり、さらなる一秒後もまた俺であらしめているのか。
それは非常に張りつめた非常に具体的なこととの積み重ねだと思う。

例えば、ご飯は完全に自炊で決まっている食材を決まった調理方法で食べている。
朝は起床すれば、決まったコーヒーを飲み、シャワーを浴びる。
仕事帰りは決まったYouTubeチャンネルを見て、まったくもっていつも通りの決まったご飯を食べる。
運動の内容も決まっている。
たぶんかなり規律正しい生活だと思う。

物にすごいこだわりがあり、買い物するときに命がけのような感覚がある。
それはきっと正しい感覚なのだと思う。それは俺の自分自身そのものになるからだ。
キーボードやマウス、モニターもこだわれる範囲でこだわっているし、筆記用具や椅子やインテリア、寝具も自分が限界の苦しさまでこだわる。
繰り返しになるがそれにはまっとうな理由があってそれは俺自身だからこだわざるえない。

俺は筆記用具マニアで筆記用具が好きなんやけど、そういう自分が嫌いだ。なにか後ろめたさがある。
それは自分を失い、気が狂いそうなときに、文房具にこだわることで自分自身を保っているからだと思う。
その自分自身のもろさが後ろめたいのだと思う。

俺はあらゆる儀式のもとに一秒ごとに工夫して自分でいる。
精工かつ繊細ですぐに壊れる。崩れたらまた時間をかけて再構築しなおしだ。それがいまだ。
ブログや読書もまた自分を維持する儀式のひとつだ。

家族がいればこんなことないだろうなと思う。
家族もまた俺がやっている自分を維持する幻想のひとつであると思うが、強さが全く持って違う。
そして家族は社会へと広がりがある。
これは以前に書こうとして失敗したのだが、社会は家族に支えられた自己愛を持っている人間か分裂した人間しか居られないと思う。
俺のような必死に自分を保っている人間にはあまりにも厳しい。
あらゆるものごとが家族ありきで構築されているように思う。正月だってそうだし、保証人だってそうだ。

ふと思いつきの脱線だが、パワハラが問題になるのも家族崩壊が原因なんちゃうやろか。
昭和のパワハラに耐えられていたのはそのときはまだ安定した家族が多かったのかもしれない。
その理屈にのっとるとたった一世代でどこまで崩壊しているんだという話だが…。

巨大中国人に宅建の相談をして崩れていることを友達に相談すると、相談する相手は選ぶべきだと言われた。
たしかにそうだ。
かなり慎重にものごとをすすめて、大事なことは人には言わないようにしてきたのに凡ミスだ。

その人と自己愛について喋ると自分をペットようにとらえるといいと言われた。
その視点はいいかもしれない。自分をペットだと思うと、いつもつらいことばかりやらせて、我慢させていて、なんてひどい扱いをしているんだと気付く。

自分を律さないと自分でいられないというのは母の物語なんやろうか。
カウンセラーに社会に参加するには自分を殺さないといけないという感覚があるということを話した。
俺は自分を殺したくないし、後戻りできなくなったら大変だから社会に参加したくないと語った。
それは母の物語をひきついでいるのでしょうかという助言があった。

社会において自分を殺す、それは家族において自分を殺すことであり、一秒一秒に自分でいるために自分を殺すことなのかもしれない。

調子が悪いときは一日中YouTubeを垂れ流しにして何かを聴いていないと落ち着かない。
顕著だったのは引っ越し直後だ。
自分を失っているとき、自分の振動を失っている。
スピーカーの上に乗っているコップを想像するとわかりやすいが、振動が不定形なものごとに形を決める。
自律している振動とは一秒前の自分の振動を引き受けていることだ。
それができないときYouTubeで何かを聴いてその振動に自分自身を預ける。
そうして自分の形を定めて、しのぐ。

俺の人生はきっとこれからも苦しい。
苦しくなくなることはないだろう。絶望しているわけではなく、これからも自分でいようと頑張るつもりでいるということだ。
なにもかもが手放しでぼーっとしていて何をしていても自分でいれたらいいのに。


端的に捉えると分裂ポジションから抑うつポジションに入っておりこれを死ぬまで続けるのは本当につらいが、気を張る以外に方法がわからない。

追記:
最近、自分であることの難しさについてよく考えていて、いろんなことが紐づいている。
よく考えていたのは体幹や足裏の感覚についてで、パンチを打つときに当てることに必死になっていたら身体の軸が前に傾いて力が乗らない。
射程距離は短くなるが体幹をまっすぐにしたままだと力が乗るし、引きも早い。
パンチの効果に気がいきすぎると肝心なことが台無しになると言うことだ。
これが本当に難しく、ほとんどがパンチに体幹がもっていかれる。体幹を失っている。

ついさっきご飯を食べていて、食べ過ぎないように注意していた。
深夜に食べすぎると朝に胃もたれするからだ。
少ない量で満足感が少ないので、できるだけゆっくりと咀嚼して食べていた。
それで思ったけど、ダイエットしていたときによく疲れて暴飲暴食していた。いやなんなら太っていた時は毎日のように暴飲暴食していたか。
それはひとつの振動なのかもしれない。自分がないから何かでもってして自分とするための一つの手段が暴飲暴食。
たくさん食べてどんな感覚も麻痺するぐらい満腹になって時間を過ごすと、その時間はひとつの形が定まる。それは自分を維持するためのひとつの方法だ。
すごい納得する。

追記::
これは実感的に正しいと思ってるんやけど、ハムストリングスが硬いときはそれはハムストリングスが物理的に伸びなくなっているのはなく、神経的なブレーキがかかっていてかたまっているのだと思う。
ハムストリングスは骨盤を支える筋肉でもあるけど、他にも支える筋肉は複数あって、代表的なのは腸腰筋だ。
そこが支えに参加していてないと、ハムストリングスは力を抜くことができない。ある程度の伸ばしたところでこれ以上は危険だとブレーキがかかるのだと思う。
俺は自分を手放しにできない。完全に律しようとする。危険がないと知っていければいいのだが…。

鏡越しの会話

今日もまだ疲れている。勉強を再開しないとな。
模試の結果は自己採点で29点。ここ14年での合格点数は31~38点なので、今受けたら落ちる。
ただ、抑えるべきポイントはより明確になったし本番試験での注意点も回収できた。やれることをひとまず一か月やろうと思う。(本番は二か月後)
焦る気持ちはけっこうあって友達にもそれを指摘された。焦りすぎて逆に身動きできなくもなっている。
調子が悪いもあるけど、やれることは決まっているから目の前のことを単純にやろうと思う。
ただ、一日で頑張りすぎても続かないので、そこだけ注意して。

余談なのだが、模試に向かう電車でとんでもない美人の巨乳の女がいた。しかも胸の谷間をがっつり出した服を着ていて。
カップルでいたのだが、その女の細かい外見や彼氏の感じが気になり、勉強しているフリをしながら目の端で見ていたら、降りるべき駅で降りれなかった。
こんな馬鹿なことって本当にあるんだともはや感動だった。

昨日の仕事は一年に一回あるかないかという20時あがりで、その足のままジムに行った。
子育てで数年来ていなかった友達がいた。すごい疲れていたが、その友達がいたのが嬉しすぎて一緒にボクシングエクササイズのクラスに入った。
木、金でジムに来るみたいだが、金曜日はカラーテがいる。どういう化学変化が起きるのやら。

ジムといえば、最近ムエタイを始めたいなと思っている。近所のやつの体験に行きたいのだが、もちろん試験が終わってからだ…。
そのときにはきっと別の事を考えているだろう。

今日は美容室に行った。
いつもそこの美容師の人といろいろ話をするのだが、その人はお客さんが来店されることで髪がセットしやすくなりもう一回ちゃんとしようと美意識が上がればいいと思いながらしていると語っていた。
それは服でもメイクでもよくて総合的に上がることでお客さんの幸福度が上がるし、回りまわって自分の仕事も増えるとのこと。

加えてお客さんとのコミュニケーションも大事にしていて、お客さんが気になっていることを引き出して、その目線に立つことを意識しているらしい。
前髪が気になっている人なら前髪を重点的に気にして、枝毛などの処理はお客さんが気にしていないのなら何も言わずにやるだけやってしまい、あくまで会話の重心は前髪に置くそう。

前にもブログで語ったが、河合隼雄は理髪店をカウンセリング的だと捉えており、その通りだなと改めておもった。
美容室でのワンシーンを切り取った小説なんてあってもいい気がする。

内側から湧いてくる美意識…これは自己愛と言い換えてもいいと思うが…を押しつけがましくなく捉えようとして、そういう会話を鏡越しにする。
なんかすごいカウンセリング的な感じがする。

髪を染めたり、パーマを当てたいけど恥ずかしいしな…みたいな抑圧を抱えているお客さんをたくさん見たり、髪型を派手にして性格が変わっていく姿も見ているそう。
お客さんの美意識に眼差しを向けている美容師は真に優れた美容師だと思う。
だから俺はあの店が好きなんだろう。

追記:
これは優れた小説にも言えることやと思う。
優れた小説は読者の中にある小説的意識に対して向けられており、そこが反応するようになっているのだと思う。

社会で生きる

先週作った箱庭は社会で生きるといったテーマがありそうなものだった。
左下に住宅地、左上に工場、真ん中には縦に防波堤のような人工的な砂の山があり、その山をバリケードとして利用している大人たちが右から襲い掛かってきている蛇たちに応戦して街を守っている。
その様子を右上のバイクに乗った男性が見ている。(夏帆のモータバイクの男みたいやなとのちのちに思ったけど、まだ読みきってもないし影響はされていないと思う)
住宅地には蛇の軍勢の一部のクモが隙間を縫って侵入している。

蛇たちは悪の象徴で、人間社会において駆除しなければならないものだ。この箱庭の進展においても蛇たちは全滅するし、侵入できた蛇ものちのちに殺される。
蛇に応戦して殺している大人たちはやるべきことをしている善だ。決して蛇を生かすわけにはいかない。
住宅には住人がいない。いるはずだが住人を置くのに抵抗感があった。そもそも住宅、工場エリアに生命力を感じない。まだ蛇たちのほうが生命力を感じる。
クモが侵入成功したことにしたのも蛇軍勢に頑張ってほしいからだ。一矢報いてほしい。しかし、もちろん蛇を全滅させたあとに大人たちは街に戻ってきてほどなくしてクモは見つかりあっけなく殺される。それは街のためにそうあるべきことだ。

バイクの男は通りがかりに見ているというこだ。バイクの男には帰るべき場所がないし家族もいない。
戦いにはもちろん参加しない。
大人たちは街を守り切って家族のもとに帰る。そしてまた工場で勤務し、家に帰り日常を楽しむ。そこに疑問はない。大人たちは迷いなく満足している。
それに比べてバイクの男は迷いがある。なにか寂しい気持ちがある。

俺は大人たちが街が正しい姿だと思う。蛇は殺すべきだし、仕事をして家族を持つのがあるべき姿だと思う。
そもそも、箱庭に家を置くのはすごい抵抗感があったが、置くのに挑戦してみようというコンセプトから始まった作品だった。
これは先週の木曜日に作られたものだ。
夢は未来を予想する言われる。シンクロニシティ。
箱庭もそれがあるみたいだ。

その日、仕事で事務所に行ったときに支配人(俺が働いているところはグループのなか最上位クラスの規模でそこの支配人ということは、ただの支配人にではなくかなりの権力者だ。)から声をかけられた。
社員になりたいみたいだから中途採用に応募しないかということだった。俺が口利きしてあげるしアドバイスしてあげるとのことだ。
その場で頭が真っ白になり、ありがとうございますと言った。
中途採用の申し込みのための文章を考えてきてほしい、それもできるだけ早くと言われた。
君はもうええ歳やからできるだけ早くなということだった。
たしかにそれは全く持って正論で正しい。しかし、俺はすごい不快だった。ただえさえ自分のことを極限まで無価値だという認識でいるのに、そこにさらに追い打ちをかけるように年齢のことまで言われてしまうと自信を失い、こんな年齢のいったなんの経歴もない人間を拾ってくれるなんて感謝しないとという気持ちになってしまった。

その場ではすぐに文章を考えてまた持ってきますと言った。

その日の数時間後にまたたまたま支配人と会い、日曜日、つまり今日に渡しますねと伝えた。
しかし、その日は俺の勘違いで休みだった。もう渡すと言ってしまったのでそれだけのために行くことにした。

帰り道にもともと同じ売り場だったよく話す女性に声をかけてことのあらましの説明し相談した。
立ち話で二時間ぐらい聞いてもらった。それでほとんどの方針が決まり、かつジェミニに具体的な対応の策を整理してもらった。

中途採用には応じない。
本当の理由はそもそも今の会社で正社員になるつもりはない。社員になりたいというポーズはあくまで保険のためだ。
俺が社員になるリーチがかかるのは2年先ぐらいの予定だった。その間に脱出作戦を敢行するというのが本来の道だ。
今でいうところの宅建士になろうとしているのがそういうことだ。

しかし、それをそのまま言えない。
最初はパニックになってもう全て白状したいという気持ちになった。
でも、時間が経つにつれてもっと中途半端にして誤魔化したほうがいいと思った。

そこで支配人には、家庭の事情があるので、中途採用を少し先送りにしたいと伝える作戦でいくことにした。
今の支配人は俺は本当に好きで、環境の改善など現場のことを本当によく考えてくれていて器も大きいし、しかも俺の面倒も見ようとしていて、本当に申し訳ないけどそれでいくことにした。
(俺は人に厚意を向けられたり、優しくされるのに慣れていなくて、そういうことがあると全力でそれに応えないといけないと思ってしまう。とんでもない罪悪感を感じる。)
(また、その人との繋がりが断ち切れるような感覚がある。もちろん、その人とほとんど繋がりがないようなものやけど、それでもそれが怖くなる。)


日曜日、つまり今日、ついさっきに支配人と話をした。
支配人は俺の煮え切らない様子を見て、熱意を見せてほしいと言っていた。本当によくわかる。加えて、年齢的にチャンスがどんどん狭まっているということも言っていた。それもよくわかる。

俺はやはり家庭の事情というのがすごい言いにくくて困っていたのだが、どうにもならなさそうだったので、言った。
言うとすごい号泣してしまった。
これは嘘の理由として言っているのだが、あながち嘘でもないというか大きな遠因であるのでそれで泣いてしまったのだと思う。
支配人は落ち着くのを待っていたがもう前みたいな勢いはなく、落ち着かせるモードになっていた。
支配人の中ではもうそんなにつらいだったらまた今度にしようというルートに入っていたんだと思う。
よくわかる。実際そうなる。

俺の異常性はそんな極限状態でも相手のことを慮ってしまうことだ。
確かに支配人の言う通り、年齢的なリスクもあって、そんな中で先延ばしにするのは甘いと思うんですけど…と支配人の論調を尊重し、厚意にも感謝しておいた。

本音としては支配人は周りも自分もつらい中で働いていると言っており、甘いのはお前だと思っていたが、それでも相手の世界観に則った。

帰りに勤務中の相談できる女性に会いにって少し喋り、ことの顛末を話し、少し落ち着いた。

書いていて思ったが、宅建士の勉強を始めていてよかったかもしれない。それが防御力になった。
はっきり言って今日の休日もこの事件のせいで勉強時間が削られてすごい迷惑しているのだが、それ以上に困ると思ったのが、中途採用でいろんな用事が多くなり、勉強時間がなくなることを懸念していた。
今回で受かるかはわからないが、受かるつもりで勉強しているし、余計なことに労力を割く余裕は本当にない。

今のところで正社員になって得れる権利より、宅建士の資格で得れる権利のほうが大きいと思う。
今のところで正社員になっても首根っこつかまれて労働させられるだけだ。そこでしか生きられなくなるし、逃げ場がなくなる。

宅建士の勉強をすすめていて、もうここまで勉強しているという実感がなければ、なにかもやもやと違和感を感じながらも流れに抵抗できなくて、そのまま中途採用に行っていたかもしれない。
それはもう破滅の始まりだ。

相談できる女性と話しているときに長くここに居すぎたと話していた。
思想で未成熟テオトニー?みたいな言葉がある。固まりすぎているとよくないよみたいな話だ。
沖縄空手で居つきを嫌うという教えがある。身体が固まると力が出ないということだ。

俺は今の会社で固まってしまっている。

二つとも固まるのを避けようということやけど、なんでそもそも固まるのか。
それは恐怖からだと思う。空手なんかわかりやすいけど、単純に相手を倒したいと思えば、全身が力んでしまい、突きのときに身体が固まってしまうやろし、防御のときもより大きな力で抵抗しようと身体を固めてしまうと思う。
固めなくても抵抗できるとわかったときに身体の力が抜けて実際に居つきがなくなるのだと思う。

俺は今の会社で居ついている。怖くて固まって、どんどん固まってしまっている。
それがやばいと本能でわかっている。

社会で生きるとはひとところに居つくイメージがある。
会社で何十年と勤めて、ある場所に一軒家を経ててそれが終の棲家になってみたいな…。
そうあるべきなんやろうけど、どうしてもそうなれない。
箱庭でのバイクの男でいたい。でも、バイクの男も寂しくてつらい。
それに大人たちがいるから社会が安定的に回る。バイクを作るにしもて売るにしても大人たちの献身ありきだ。
バイクの男は社会からあぶれながもバイクという社会の生産物を享受してしている。それはそれでずるいやつだと思う。
ずるいとは思うけど社会で我慢大会はしたくない。
適応している大人はきっと我慢をしていないのだろう。だから居られる。俺には無理だ。

今日から過去問を手に付けるつもりだったが大幅に計画が狂っている。
二時間しっかり時間を測ってやるつもりだった。これからやるべきか…。
本番でも完全な集中力がない場合もあるしそれを想定したといてやってもいいかもな。
これから二ヵ月あるけど、もはや平穏に日々が続くと信じられない。またなにかあるかもしれない。
完全に積み重ねてきたものが直前に全て台無しになるイメージがある。
家族がそうだった。大事な試験が近づくにつれ母親はパニックになり、俺に勉強してる姿を見せるように強いて、たくさんの試験用の道具を買ってくる。
母親のケアもしないといけなくなり、そうして俺は潰されていく。
今回の積み重ねはささやかなものやけど、ただ十全に終わりたい。

箱庭療法

ここ数回の箱庭療法はコンセプトをもって挑んでいる。
前回のを受けて、今回はこうしようだとか、これを置いてみてそこから作ってみようとか。

それまでの箱庭ではノープランで向い、そのときのこころのありようをそのまま表現するんだという純粋?な感じだった。
今は創作的な感じがしている。意識的な意図がある。特に何かを受けたうえでの意識的な意図だ。

プランを持って箱庭に挑むと不都合なことばかりだと気が付く。
例えば、直線の道路を作りたいと思っても、それを表せる玩具はないし、線路にしてもまっすぐな線路がない。
そこで仕方なく道路はあきらめたり、線路は曲がったものにしたいるする。
プランからどんどん離れ行ってその場の状況に応じるように作っていくようになってしまう。
そういう状況で俺特有の癖が湧いて出てくることが最近になって気がついた。気が付いてそれは自分が侵されているような感覚になった。防御できていないという感覚。それは無意識的なことだ。

意識的なプランが崩れて行って、隙間から無意識が現れてくる。
意識に応じた無意識からの反応だ。これを意識的に読み解くことこそ箱庭療法のいいところなんだと思う。

プランに応じようとしてうまくいかず、玩具に応じようとしてうまくいかず、状況に応じようとしてうまくいかないくて、結局いつもの癖がわいてくる。
それが俺の現実対応であり、統合の象徴なのかもしれない。好意的に見れば芸術的で個性化の道を辿っている。もちろん好意的に見ていなく、放置できないと思っている。

箱庭療法は自身の中動態性を表面化してくれる。

落ち着きを取り戻すように

猛烈に宅建の勉強している。今日も今日とておしすすめていかないと間に合わない。
かといいつつ今現在ブログも書いている。こころの休憩をしないときっとうまくいかない。
昨日一昨日は体力の限界まで勉強したあとに夏帆を読んでいた。自分の不思議なんやけどめちゃくちゃ文章読みまくったあとでも小説は読めるしなんなら一番癒される。
我ながら発見だった。
ジムは四日間休んでいる。時間的にも体力的にも行けない

スーパーのATMにカラーテがいいた。
すごい急いでいたので目を合わせて笑うだけしておいたけど変に思われてへんかな。

ハードル走メダリストの為末のYouTubeチャンネルで中動態を引き合いにイップスを語っていて面白かった。
サーブやピッチングという能動的な動作でイップスは起きやすくレシーブやバッティングでは起きにくい。
引き起こされた動作のほうがエラーが起きにくいということだ。
他にもおもしろいことがたくさんあっていろいろと考えてメモったけどまぁいいや。

明日はさすがに少しは身体を動かしたい。全体的に点検をしたいという感じだ。

カウンセリングではずっと連続で箱庭を作っている。
箱庭もまた典型的な中動態的だろう。場があり、玩具があり、カウンセラーがおり、そこでおれは引き出されている。気付くことも出て来てて面白い。

トイストーリー5 こどもの無意識

朝はジムでヨガみたいなことをするスタジオに入った。
日曜日はたいていはそうだ。
いつもはその後に仕事があるため大急ぎで帰宅して出勤している。今日は休みだったために、ストレッチゾーンでインストラクターの人を待ち少し質問して帰った。
最初のころに比べて力が抜けてきてよくなっているとのことだった。
その先生にはよく考えすぎなようにと言われる。脱力が大事だと。
俺に通底する緊張感みたいなのを見透かされているような気がする。

勉強も頑張りすぎているし、勉強もまた、脳の運動だと捉えてみれば、身体の運動と同様に脱力が大事なのかもしれない。
簡単に脱力と書いているが本当に難しい。

昼からは友達とトイストーリー5を見に行った。すごいよかった。(以下ネタバレ注意)
あらすじとしてはスマホ世代の子たちにとっておもちゃがいらなくなって~みたいなことだ。

流行りの通信デバイスを持っていないと友達の輪に入ることができない。しかしながら、実際にそのようにして通信デバイス越しに友達になった子たちと会って遊んでみても通信デバイス越しに遊ぶことになり、主人公の女の子や棄てられかけているおもちゃたちがそのことに違和感を感じることになる。

おもちゃたちは「本当の遊び」と表現していることがある。それは女の子が部屋でおもちゃで空想を広げることだとわかる。

主人公の女の子はこの「本当の遊び」が好きなのに、友達を作りたくて通信デバイスを無理に使い調子を崩していたところに、同じように「本当の遊び」をする女の子が現れて二人は意気投合する。

おもちゃを使った空想の遊びというのは自分の世界観を強めたり、自我を強めるのにすごい重要なんじゃないかと思った。
ひとりでそういうことを繰り返して自我を強めたのちに、同じようにおもちゃで遊ぶ子どもと一緒に遊ぶことで空想の共有や交換ができて、安心安全な自我的交流を体得するのかもしれない。
あくまで重要なのは人が対面で向かい合うのではなく空想の中で触れ合うのが大切なのだと思う。


河合隼雄は無意識が勝手にアレジメントして都合よくものごと進むことがあると書いている。いわゆるシンクロニシティだ。
トイストーリーではおもちゃの助けによって物語が進む。
トイストーリーの世界で描かれているおもちゃの世界というのはこどもの無意識の世界のあらわれなんちゃうやろか。子どもの無意識の世界ではおもちゃはもちろん動いている。それが実際の世界にも影響しうるということだ。

おもちゃが動いているところは人間に見られてはいけないというのもおもちゃを無意識だととらえると、そもそも無意識は認識できないものだったり、昔ばなしでの「見られてはいけない」という禁忌と合致して面白い。


子どもはいずれ大人になりおもちゃは棄てれれるというテーマもある。
これもおもちゃを無意識として見ると面白くて、しっかりと遊ばれたおもちゃは大人には内在化され、おもちゃは人を渡っていく。
十分に遊ばれなかったおもちゃはずっとボロボロなままでいる。
大人はおもちゃを棄てるべきとまではいわないが、こどもみたいに遊ぶわけにはいかない。おもちゃはそこそこ棄てられるべきだ。というか放っておかずにしっかりと棄てられるべきだ。

主人公の女の子が友達におもちゃで遊んでいることを馬鹿にされ、恥ずかしくなり、遊びに持って行かなくなるシーンは泣けた。

軽く書く

村上春樹の夏帆が発売された。
最初の短編だけ読んでみた。まぁまぁよくある感じの村上春樹やなと思った。醜い女性のモチーフってこれまでも短編やったらけっこう取り扱われてたと思う。少なくともひとつはすぐに思い出せる。
最新の三つの短編集はどれもバラバラの短編の集まりじゃなくて相乗効果のある短編での短編集やった。今回は同じ主人公で明らかな連作やしどうなるのか楽しみ。

ただ、夏帆の読み進めはだいぶ遅くなると思う。
職場でどんどん俺の正社員化が進んでいる。現状どんどん損になっていってる。やることだけ増えて行って給料は増えない。同じ給料でぜんぜん働いてない人も多いのに。
そして、おそらく、社内試験をぽんぽん受けさせられて非正規雇用の売り場責任者のポジションまでは一気に上げられると思う。
なぜならこのポジションが会社が量産したい人材であり、それはつまり雇われる側からしたら最も損な状態だ。
非正規雇用で福利厚生は不利でありつつ、責任のみがある。
このポジションをけっこう長期間やらされた後に食品へ正社員と回されると想像している。
それでも俺の状況からしたらいいほうなのかもしれないが、こんなん資本主義輪姦だ。

宅建の試験が7月中までなら申し込みすることができる。
今、大急ぎで勉強中だ。さぼりまくっていたのだが、逃げないとという気持ちでモチベーションが上がっている。
7月中に勉強が間に合う目処が立てば、試験に申し込もうと思う。
今日もこれから勉強だ。

カウンセリングでは箱庭を二回連続作った。
もっと連作で作りたかったのだが、次週はカウンセリングの都合上できなくて、途絶えてしまう。
今回の箱庭は前までの箱庭と違って一身を投げうって作っているような感覚が少ない。
両方ともこころの現れではあるんやろうけど、今回のシリーズのほうが「こういうのを作りたい」という発想から作品を作っているような感じだ。
端的にいうなれば自我的。

カラーテのことは未だに気になっているのだが、なんだか最近はむかつく存在になっている。
ボクササイズのあとにストレッチゾーンで会員さんたちと談笑する時間があるんやけど、そのときカラーテに無視されている気がする。
例えば三人で会話しているときも完全にこっちに背中を向けて話していたり、俺の話は軽くあしらったり。
とにかく最近は姿を見ればイラつくのでできるだけ居ない時間帯にジムに行くようにしているのだが、そういうときに限ってなぜイレギュラーにジムに居たりする。
今日は金曜日でカラーテのボクササイズの日だが、行かない。