ダイエット

二週間ぐらい前に職場のパートのおばちゃんに太ったねと言われた。
ツイートを見返すと1年前にも同じようなことを言われていた。(ついでに過去のツイートをたくさん削除しておいた)
1年前はなんとも思わなったけど、今回のはなにか自分の中で薄々気付いていたことをついに言われてしまったといった感じだった。
昔の自分の動画を見るとたしかに顔がしゅっとしていたり、昔のツイートも食事に気を使っている内容が多くて最近たるんでいたんだな~と思った。
ここ最近は食事制限をしている。しかし、過度な食事制限は絶対に失敗するのでそこには気を付けていた。
今日はダイエットのつけが回ってきたのかバイト中にかなりイライラした。
これは糖質制限中によくある感じの倦怠感とイライラなのだが、ここまでくるとやりすぎの合図だと思う。
少し糖質を増やしてまた減らすようにしようと思う。
数字で管理すると増やし過ぎることはないと思う。体重をはかると神経質になるので、冷凍ご飯を作るときに米の量だけ測りで測っておき、それで自分の糖質量に自覚的になることで気持ちを切らさないようにしようと思う。
6,7月にはある程度痩せれていると思う。俺はダイエットマスターだ。

今日はカウセリングがあった。実は毎週木曜日をカウンセリングの日としている。
非公開のカウンセリングブログはもう4,5回分書いていない。単純に書くのがめんどくさくなっている。
というか、昔は書かずにはいられなくて暴走するかのように書きまくっていた。
今は、、、というか7,8回ぐらい前からめんどくさくなっていた。これまで書いてきたことやからずっと続けたいという気持ちがありつつ、しかし、そもそも書きたい衝動が出てこないといった感じだ。
もうカウンセリングブログを書けないということだ。情熱的なタイピングをできないのは寂しいけどもうその衝動がないのだから無理やりかいても仕方ない。
なにより気持ちよくない。

書けないことを認める寂しさや今までしてきたことやめるなにか罪悪感のようなものが強く前面にくるが、たぶんそこには苦しみもあったかのように思う。
俺はメモ魔で今もそうなのだが、それには明確に苦しみがある。いちいちメモしているのが息苦しい。
明らかにその延長線上にカウンセリングブログがあった。
不安やから全てを記録して、よく考えて、そして次回に話すことを吟味していた。
最近はそういう反省や準備みたいなものもほとんど必要なくなっている。
これはセラピー的に見たら典型的に進んでいるように思えるが、なにか教科書通り的で自分が怪しく感じる。

それにしても、物を語るときはトピックは一つか多くても三つぐらいだなと思う。
書く前は一つにトピックに対して二行分ぐらいしか思っていることがないけど、書きだすを無限に膨らんでくる。
そして膨らんできてるらへんが俺にとっては楽しいところだ。
書きたいトピックはたくさんあるけどぐっとこらえて一つのトピックが膨らんでいるのに任せるのがいいんやろなと最近気づきだした。閑話休題

カウンセリングブログはいつか公開したいなと思っていて、もう書くのをやめそうやし公開してみようかなと思っている。
もしかしたらそういう準備のために俺の無意識がTwitterからのリンクを外したりいろいろとセッティングしているのかもしれない笑
いうてまだまだ先になると思うけど、、、カウンセリング自体はまだまだ先は長いのはなんとなく察するところがあるし、、、公開するときはしれっとやるんやろな~

ダイエットは疲れるな、、、確実に痩せてはきているけど疲れる。
持続が大事やしうまく調整しないと。

5月は弟の会計士の試験が終わる。
弟とそろそろ会うことになると思う。カウンセリングをしているという告白はもう何度かしているためかあまり自分の中で重要じゃなくなっている。
しかし、家族のことをしっかり話さないといけない。重要なことになるやろう。それもなんとなく察せれる。

モーニング娘。に加入したい。

モーニング娘。の動画を見るのにハマっていた。
ドキュメンタリーが最高なわけやけど、普通にライブ映像もいい。俺はアイドルに詳しくないけど俺の知らないモーニング娘。、、多分、「モーニング娘。14」と言われている2014年以降のやつがすごい。
ダンスも歌唱力もなにか生命力が弾けるような迫力を感じる。そこには色んな運が絡み合って最高の状態ができているひとつのアスリート的ともアイドル的とも分類しがたい美しさがある。

こういう情熱的なアイドルの映像にハマる時期が定期的にあり、1年前はベイビーメタルのライブ映像を見るのにハマっていた。
あのアイドルグループもダンスや歌唱が情熱的で中毒性がある。

俺がこういった映像を見るのにハマる時期というのは何か共通の特徴があるのかと考えてみたけどなにも思いつかない。

、、、と思ったけどもしかしたらというのを思いついた。
モーニング娘。やらベイビーメタルは本当の少女、、つまり、12~18歳ぐらいが多い。特に12歳なんて子供だ。
俺はこのごろイノセントについて考えていた。「ティファニーで朝食を」を読んだことで考えさせらることになったのだが、そういった影響でイノセント感のある天衣無縫感のある少女アイドルを見たかったのかもしれない。
一般に少女アイドルにハマるとはそういった投影が主軸になってることが多いんじゃないやろか。

俺にもいろいろなイノセントがあり、崩壊してきた。
例えば、父や母への信用もその一つだ。「大きな物語」の崩壊とはイノセントの崩壊と言い換えることが俺の中ではできる。
そして今も父や母への信用が崩壊されつつもその一方でそれを大事に守っているところがある。
そういった自分の中にあるイノセント性が少女アイドルを見て癒されていたんじゃないかと思う。



自分の中にある少女性みたいなものも発見した。
女性性とも書き換え可能かのように思えるが、女性性だとセックス的な意味合いが俺の中では含まれてしまい、そうではないので少女性と書く。
俺は七五三の時に女の子用の服を着たがったみたいだ。これは母から何度も聞かされた話で覚えているのだが、俺もなんとなくそんな気がする。
セーラームーンが好きで幼稚園ではそれが恥ずかしくて隠していた。小学生低学年のときは母が趣味でしていたビーズアクセサリー作りの余りのビーズで指輪を作っていたりした。それも恥ずかしくて誰にも言わないようにお願いしていた。
なにか俺の中に少女性があるんだと思った。多分、人間だれしもそういうものがあると思う。

そこから転じて、おばちゃんも少女の時代があったんだなとすごい腑に落ちる感覚になった。
そしてそういった少女性は、おれの少女性と同様におばちゃんの中で生きている。たぶん男性である俺よりもっと活発に生きているんだと思う。



今日のジムは二ヶ月ぶりに会ったおばちゃんと一時間ぐらい喋った。
巨大中国人とも、ザ大阪ともゲイぽい人とも喋りまくった。喋るのがすごい楽しくなってる。
しかし、帰りになにか罪悪感のようなものを感じてしまう。俺の中で楽しんではいけないみたいな物語がすごい強固に残っている。この物語に飲み込まれるのと今みたいな状態を俺はずっと行き来しているんだと思う。


みすず書房からカフカの日記の本が出るらしい。図書館で予約しておいた。
表紙が手書きの日記の写真でその文字の感じがなにかいいなと思った。おれは人の文字フェチだ。
これはけっこうなものでフロイトカフカみたいな好きな人の字の癖に惹かれることもあれば、女性の文字に性的な魅力を感じることもある。
女性の文字に性的な魅力を感じるのはおれにとっては当たり前すぎる感覚やけど珍しいのかそれともみんな恥ずかしいから隠してるのかどっちなんやろう。
自分の文字は本当に魅力が無くて好きになれない。

千葉雅也がセンスの哲学という本を出すらしい。
センスを得ようと本を読むのがなにかセンスがないことのように思うのでしばらくは読まないと思う。

なんの引っ掛かりも無く自分の内側に生まれた愛情を受け容れれたらいいのにな。

あえて「感情」ではなく「愛情」と書いてみた。
ついさっき見ていたブログで、「愛情」について書かれたいたのでそれに影響されてのことだ。
「愛情」と書いてみて気持ち悪いから「感情」と書き直し、また「愛情」にした。
俺が常日頃、、、というかブログやその他の発信において「感情」と書いていることの多くが「愛情」のことを言っているんじゃないかと思う。

こういうことを書くとなにか精神的に調子が悪そうに見えるかもしれないが、そんなことはなく、実はここ最近はかなりの絶好調だ。
バイト先では社員やパートの人といつもに増して自分自身なんの引っ掛かりもなく話せているし、ジムでも似たような感じだ。

何か、正直に書くと、働きに行き、いつも人たちと会い話すことや、ジムで人と話すことが楽しく感じ始めている。
というか、もともと楽しかったはずだ。ただ、「楽しくてはいけない」と感じがたぶんしていたので、「楽しくない」としていたかのように思う。
働きに行き慎重に働き、会話を楽しまず、ジムでもトレーニングをして、慎重に人と話す。それが俺を支えていたストーリーだったのかもしれない。

特にジムでの話。
ザ大阪という癖の強いおっちゃんにジムで会うたびに話しかけられていることは以前のブログに書いたと思う。そして、巨大中国人。
俺は明確にそう思っていたわけではないが、この二人や従業員の人たちに話しかけられるのに嫌な気持ちがあった。
人と話すのは大げさに書けばそのたびに一世一代の大博打をしているような気持ちになり神経を使うからだ。その反面、話していて楽しい気持ちにもなる。
最近はその楽しい気持ちになっていることにより意識的になったきたように思う。
普段、ジムに行くとき、ほんの少しだけ気が重い。それは正直に書くと色んな人達と話さないといけないからだ。
しかし、いざジムに行くとその嫌だった人と話すということが何より楽しいことになっている。
この鮮やかな矛盾に気付いた。
俺は一人でいるとき、、、具体的には4時間ぐらい、、、?でも、シャワー一回分ぐらいでも、、、
自分の世界を守る物語を反芻する。
それは例えばジムでこういう会話があって、もし、こんなひどい喧嘩になったらこう言おう、、とかだ。(口論の妄想はけっこう多い)
しかし、現実は口論どころか会話を楽しんでいる。
明日もジムに行くつもりだが、今、自分は明日、ジムに行き誰かと話すのを楽しみにしているのかよくわからない。
こういう感覚はたしかに昔あったかのように思う。多分、楽しみにしているはずなのだが、なにかそんな急には受け容れられないといった気持ちだ。

ブログの更新はかなり久しぶりになるが、空いた時間はほとんど読書をしていた。
実は非公開のカウンセリングブログも4回分書けていない。
昔はもっと必死になって書いていたけど今はそこまで必死な気持ちはない。
無理やり書く必要もないなと思いつつ、一年ぐらい続けたことだから、どこかでまとめて書かないと、という落ち着かない気持ちもある。
カウンセリングの内容のメモや日々思ったことをメモしているが膨大なため探すの億劫だ。

ブログを書くのもかなり億劫な気持ちになっていた。
というのも書きたいこと多すぎたからだ。たくさん思うことがあり、それをメモしていて、溜まりすぎたのでそこで行動不能になっていた。
今はなんとなく、書き始めた。こういう書き方が一番、気持ちいいなと本当に思う。
メモを見ながら、項目を消化していく書き方は何度もしたことがあるが、まず書いていて楽しくない。
俺の文章が俺の物語をやわらげてくれるように思う。

このブログは一応、ツイッターから飛べるようにリンクをプロフィールに貼っていたがそれを外すことにした。
俺にとってこのブログはあくまで公開されているという感覚が大事だった。(今でも公開されているが笑)
それは、、、これも言葉にすると身も蓋もなく恥ずかしいけれど、、自分がどこまでも自己開示しても受け容れられるんだということを試していたんだと思う。
カウンセリングにもそういう面がある。
その受け容れというのは実際に起こるかどうかは問題ではなく、そういう心的リアリティが自分の中であるかどうかが問題であって、俺は少し満足し始めているのかもしれない。
なので、、、というのもなんか変な感じがするけど、このブログにはツイッターから飛べないようにして、少し隠れたところでやっているような感覚で書くことにする。

以前までのブログ記事は大げさに言えばリストカットに近いようなニュアンスもあったと思う。
かなり控える気持ちで書いていたけど時に生なましい傷口を見せるようなことも書いていただろう。
これからは文章上の変化はないと思うけれど、少し、親密な気持ちで書くような感じにしたい。

かわいい

今日は二日ぶりにジムに行った。
レーニングはせずにお風呂だけ入った。なにか身体を動かす活力みたいなものが出てこない。
日曜日までバイトが続くしそこまではダラダラ過ごして気力をためよう。

バイト中、ある女性社員が入荷作業をしている服を見てかわいいと言っていた。
そういうことはよくあることで女性同士なにがかわいいとかかわいくないとか喋っている。
いつもその「かわいい」という感覚が不思議で、違う社員の人にどういう感覚なのか聞いてみた。
あまりはっきりとした応えは返ってこなかったけど、それこそが「かわいい」の特徴なんやろう。
「かわいい」はそれ以上の説明ができない、あるいは不要な自明な感覚なのだと思う。
そして女性同士は「かわいい」で連帯し、より強固な自明性を得るんだと思う。
めちゃくちゃ羨ましい。
それに比べて男の「かっこいい」はなにか違うように思う。幼児的というか、そういう含みを感じてなにか違う。
「かわいい」もまた幼児的やけど、それはいい方向に働いているように感じる。


一週間理論というのを開発した。
俺はなにかを始めたら毎日やそうでなくても定期的にしようとセットを組む癖がある。
例えば筋トレなら、マシンプレス、ダンベルフライを3セット10回で3日休憩を挟むとかそんな感じのことだ。
そういうのをいろいろと組みだしたら毎日何かをしないといけなくなる。しかし、もちろん毎日はできないので、できなかったときは無力感や罪悪感を感じる。
この無力感や罪悪感に気付いていてなかったのだが、最近気づいた。
そこで編み出したのが一週間理論で一週間のうちに筋トレ1回、水泳1回、ヨガ1回とかなんでもいいけど一週間単位で考えれば楽になるんじゃないかと思った。
書いていてかなり当たり前のことを書いているように感じるが、俺にはなかなか難しいことだ。
俺はあまり未来を想像できていないんだと思う。だから、その日に頑張らないといけないと思ってしまうところがあると思う。
一週間という時間の幅を発見出来たらいいなと思っている。


noteに夢小説を書いていた。
実際の夢に本当に少しだけ脚色して小説風にしている。いつもかなり淡泊な文章が多くて独りよがりなものになってへんやろかと思ってしまう。
それでも、やっぱりあまり多くの文章でじっくり描こうという感じがしてこない。
このへんも自分の余裕の問題なんやろか。
伝えようとしたら焦りが出るからもはや最初から伝える気を持たないようにしているというか、、、


最近ハンターハンター考察動画ばかり見ている

クロロという多重人格風のキャラクターだ。
このワンシーンは主人公に凶悪犯罪をする動機を問われたときの反応で名シーンのひとつなのだが、久しぶりに見て俺やんってなった。
クロロが動機を言語化できる日がくればいいと思う。


村上春樹作品を読んでいたり、夢小説を書いていると、昔の水泳しているときの感覚を思い出した。
気温も今ぐらいだったと思う。
明日、やる気が出たら泳ごうかな。

テンション下がるわ~~

今日は雨で少し寒かったから冬の時のようにインナーにヒートテックを着てバイトに行った。
道中はよかったが、館内はかなり暑くてインナーはすぐに更衣室で脱ぐことにした。
そのときについでにマスクも汗で濡れていたので外した。
俺のところは従業員の95%はマスクをしているが俺は一昨年の冬ぐらいからマスクを外していて、昨年の冬に旅行前にコロナにかからないようにまたマスクを付けていた。
ようはマスクを外すのにはもうあまり抵抗はないということだ。旅行前の延長線上でずっとマスクをつけていたが、外すいい機会だと思った。
外していつも通りに働いていたらあるおばちゃんパートの人が「太ったね~顔ふくらんでるやん~」と言ってきた。
ほんまにキレそうだ。というのは冗談やけどけっこうショックだ。たしかに最近ベルトの穴も一つぶん広がった。
その人が帰ったあとに、別の人に聞いたらたしかにちょっと顔が腫れてるように見える、酒の飲みすぎちゃうんと言われた。
たしかに、昨日、偶然ビール飲んでるし、俺はそんなに頻繁に飲まないからそれで顔がむくんでいるんだと思った。
そうしたら、急に身体も重いような感じがしてきた。二日酔いのような気がしてきた。
というかそうでなければ単純に太って顔が膨らんでいることになる。二日酔いであってくれ。

帰りにはジムに寄るつもりだったが、なんだかやる気が削がれたので行かないことにした。悪循環だ。
それにしても、もうこれ以上太らないように生活するのは無理だ。
食事もそこそこ気を使っていて、運動もけっこうしていて、これで太るならもう仕方ない。

ツイートができるようになってきた。

ブログに書きたい事はいっぱいある。
俺はどんな些細なことでもそれを皮切りに五千文字は書ける。

昔は、、、昔といっても半年前とかやけど、、、昔は、本当に適当にブログを書いていた。
このブログは最初は文学評論みたいなのをしていて徐々に日常生活や色んな内面の告白みたいなのを書きだした。
最初期のころは無理やりネットスラングやそういったノリを混ぜていた。不安だったんだと思う。
書いていてどんどんクオリティが上がっているのを感じていた。
徐々に自分の言葉で書けるようになっていた。それは自分の言葉が伝わるんだという世界への安心感を感じ始めていたということだと思う。
それによってか、まとまっていない事故みたいな記事もいくつかある。(それについても思っていることがあるけどまた今度に)

しかし、ここのところはうまくブログを書けなかった。
というか、書きだすことをしなかったというか、、、、なにかの歯車が狂っていた。もちろんブログを書く事が素晴らしいなんてことではない、俺はむしろ今のような赤裸々すぎるブログは終わりにしたい。プライバシーが無さ過ぎる。
話がズレたが、ブログを書けなかった。これは旅行とその旅行動画を作ろうとしたことが原因だと思う。
これも詳しく書く力がない。あと今はビール500ml飲んでいるのでやや朦朧としている。
ハンターハンターの解説動画を見ながらもう一缶飲んで寝るつもりだ。
その前に歯ブラシもしないと。

そう、とにかく、俺はなにか自分の中での流れが滞っているように感じていた。ブログを書けないことは俺にとって苦しいことだ。
そして付随してかツイートもできなくなった。
なにかこう説明が難しいが、旅行と動画編集で外側の世界みたいなものに長期間当たりすぎた。それで俺は元の自分にうまく戻れなくなってしまったように感じている。
それで自分を守るために過剰に外部をシャットアウトしたくなったんだと思う。めちゃくちゃな過剰反応が出てしまったということやな。

俺はほんまに微妙なバランスというか危ういものなんだなと思った。
こんなある意味普通すぎることでおれのバランスは壊れる。俺はアルバイトで社会と接する時間は短くて、他のほとんどの時間を一人で過ごしてきた。それが八年あるわけやけど、それには俺なりの理由があったんやなと改めて思う。

肘がすごい乾燥してる。

昨日、腕まくりしている時に何気なく肘をかいたらざらっとした質感でよくよく確認するとすごい乾燥していた。
軽く肌がさかむけていて血は出ていなかったけどなかなかひどかった。
尿素クリームを持っていたのでさっそく昨日の夜からつけてみるとそれだけでだいぶマシになった。

書いていて尿素ってなんなんやろってぐぐってみた。読むのめんどくさくてちゃんと読まんかったけど、無機化合物から初めて合成できた有機化合物らしい。無機から有機ができることってあるんやな。

雨が降っていたので、ジムは行かなかった。めんどくさかった。
行かなかったときはいつも後悔する。

野間俊一の「身体の時間」を読み始めた。
「本能」の存在を前提としてる下りがあってラカンと違うんやなと思った。
でも、ラカンはどのような理屈で本能の存在を否定していたか忘れてしまった。無意識が言語で構成されてるあたりの理屈は書ける気がするけど、本能はどうやったかな。
といっても、本能も無意識も語り手特有の定義があるからなかなか横並びにして語るのは難しそうだ。
フロイトの「エス」もフロイトが開発した言葉じゃないらしくて都合よく意味をそぎ落とし、自分の理論構造に入れ込んだらしい。

旅行動画は多分作らないと思う。
その理由含めて、旅行での自分への影響を書きたいと思う。今はもう二時前で書く気が起きない。
旅行の影響はしっかりとあり、遅れてそれに気づいたように思う。遅れてといっても帰ってまだ一か月程度だけど、
一か月も経ってまだ旅行のこと言ってんのかいとも考えらるなと、、、

大事な感想や影響は遅れて気付くもののように思う。
読書もだいたい2,3週間後ぐらいがしっくりくるような感想が浮かんでくると思う。


デカルトの「われ思うゆえにわれあり」というのは、何事も「~だと思う」という断定できないような形でしか表現できないけど、「~だと思う」と思っている自分の存在は断定できるということらしい。