続・カラーテ小話

前の記事の追記に書けばいいんやけど、なんとなく新しく書いてみる。

カラーテのときも、前の職場で好きやった人でも俺は相手にそれとなく好意を伝えられない。
その現象に共通点があるのを発見したので書く。

カラーテの例を書くと、年末休暇に入るギリギリの日のボクササイズのクラスの話をしていて、カラーテはみんな忘年会に行っていて、めちゃくちゃ人が来ないんじゃないかと心配していた。
「普通、そんな日に行かないじゃないですか?」みたいな感じだ。
〇〇さんは来てくださいね。と言ってきて、俺は無論、暇だし、なんならけっこう行きたいので行くつもりだったのだが、「普通、そんな日に行かないじゃないですか?」と言われると、行くとおおげさに書けば引かれるんじゃないかと思ってしまう。

俺は格好を付けて、「行けたら行くわ~」と言った。実際はできる限り行くのに。

これを構造的に見てみたら、
女性が常識的に、論理的にこうするのが正しいと提示してくる。
→実際、俺もそれに納得するし、そうじゃないと変な気がする。
→俺はその女性が提示した常識的、論理的に正しい提示に沿うようにする。

ということだ。

そして、この「常識的、論理的に正しい提示」に沿わないことはつまり、相手への好意と直結する。
今回の例だと、年末にわざわざ日を空けてボクササイズに行くのはカラーテへの好意があるということとなる。(書いていてめっちゃ違和感があるが、これは俺の認識上での話だ。)

このようなパターンは前の職場で好きだった人にも多かった。

ひとつに相手の人が俺の好意を試していると取れる。
もうひとつに相手の人がいかに常識的、論理的…つまりは俺の感覚で言うと父性原理に生きているということだ。

相手の女性の背後にある強烈な父性原理を見せられると、俺はその父性原理に跪いてしまう。
しかし、同時にその女性を縛っている、父性原理を壊してしまいたいと思っているような気もする。
そこには決定的に欠けていることがある。しかし、もちろん、それは論理の軸になく、論理的に説得することはできないし、し始めた時点でズレている。

ここまでが俺の書くまでになんとくなく捉えていたことだが、思えば、「相手の女性をしばっている”父性原理”を壊したい」とは父殺しそのものではないか?
とんでもない回路の父殺しやけどこれはまさしくすぎる父殺しだ。
いや、だからか。
すごい納得がある。
俺が父性原理に生きる女性を好むのは数か月前からけっこうな自明やったけど、こういうふうな見方があるとは。
カウンセリングでまた話さないとな。

相手の女性が生きている父性原理を壊して、その女性を手に入れたいと俺は思っているんだ。たぶん。
ちょっと頭の回転が追い付いてないけどすごい発見かもしれない。

これは母を手に入れようとしている男児と同じ構造やけど、それが外部に求めてるのがいいところだと思う。

代理のアイデアはないけど、エディプス物語を求めるのはあまりのも無謀だから完全に諦めていたけど、これは完全にエディプス物語に乗っている。

自分もエディプス物語に乗れるんだと思うと急にしゃくな感じがするけど、どうなんやろ。

とにかく、俺は激しく強い父性原理に生きている女性の父性原理を壊したいんだ。
すごい納得がある。

職場で昔好きだった人も、カラーテもその点でまったく同じだ。
表面的にはけっこう正反対な二人やけどそういうことだ。
すごい納得がある。

追記:
ここ最近、たまに聴いてる曲↓
www.youtube.com
試しに聴いてみてほしいけど、どうせ聴くのなら、九分ぐらいまで大音量でこころを研ぎ澄まして聴いてみてほしい。
ちなみに俺はCDも買ってしまった。鬼気迫る感じがすごい。
指揮とピアニストが元夫婦なんもなんかいい。
フジコヘミングしかり、ピアニストも指揮者も恋と愛を知らんと芸術までいかんな。