身辺雑記と文学観

一週間ブログを書いてないのか。なにか久しぶりな感じだ。

この一週間は地味な挑戦な一週間だったような気がする。というのも、あんまりYouTubeとかTwitterを見ないように過ごしていた。
もちろん見まくりなわけだが、ポイントがあって食事中に動画を見ないことを徹底した。
徹底できてないけど、、、とにかくほぼ見なかった、それに付随して様々なシーンでも動画を見なくなった。

音楽もあまり聞かないようにしだした。
おれはなにかとずっとイヤホンをつけっぱなしなんやけど、それがなんか嫌になってきたから無音でいるようにしてる。

続く気はしないけどなんかいい方向なんじゃないかと思ってる。

肩を深刻に痛めて一か月。つまり水泳に行かなって一か月なわけやけど、先週からヨガを家でしてる。
けっこういい感じだ。アシュタンガヨガというのをなんとなくでしてみてんけどけっこうきつくて調べてみると上級者用ぽいからもうちょっと簡単なのを探そうと思う。
ヨガといえばすぐオウムを思い出してしまったり(何歳やねん笑)女性向けと思ってしまっていたがもっと早くに手を出せていればなと思った。

あと、そう、ヨガといえばスピリチュアル。
おれは多分、スピリチュアル系への忌避感がすごい。
遠因に親戚にけっこう新興宗教系の人が多くて親がその人たちのことをボロクソに言ってたからというのがあるかもしれない。(今ではそうでもないけど根っこに残っている感覚だ)

神社仏閣へのお参りもなんかちょっとアホくさく感じてしまうところがある。
というか「あほくせえ~~~」という心の声を大にしないとやってられないという感覚が正しいのかもしれない。
ここで思うのが、俺はスピリチュアル系を正面から見れない何かがあるのではないかということだ。
ここから先はないので論を横にズラして俺の文学観と肩の怪我に絡ませるんやけど~

俺の文学観は精神分析的でスピリチュアル的やと思う(精神分析とスピリチュアルは相反するものとして)

さらにちょっと話がズレて
思考停止というよく使われる言葉があると思うんやけど、感知停止という状態もあると思う。
感知停止とはつまりはスピリチュアル的なものが全く無視されている状態といってもいい。

そして思考と感知は二つセットの車輪の関係だと思う。
というのも、思考といってもただぐぐって統計学的に正しそうな知見を重ねて自分のものにしていくようなものを思考といってるのでは、それはただ自分がお利口さんになって長いものに巻かれているだけで、それは思考ではない。

俺の肩の怪我は外からの知識ばかり意識して感知を無視したからここまでになったんやと思う。
感知とは身体の声を聴くということだ。
ここをさらに無意識の声を聴くと変換すると、俺の文学観に繋がって

俺の文学観は感知と思考、(スピリチュアル的と精神分析的)がセットで働いていて、、、
なんなんやろ、、
そういうのが良い????笑
みたいな感じだ笑

俺が特に言いたいのは感知、スピリチュアルが無くして自分の身になるお手製の思考はないということだ。


砂漠と異人たちを読んでる。
一章がなんか読むのきつくて村上春樹が書かれてる三章を読んでから一章を読んで、
今は二章なんやけどけっこうきつい。
というのも、三章の村上春樹への態度があまりにも悪すぎてけっこう萎えている。
言ってることはまっとうやけどなんでこんな偉そうなんやろうって思ってしまう。
明確に悪い言葉を使ってる意図はなんなんやろうとか、おれのこの感情はなんなんやろうとか、そういうのをそのうち書きたいと思っている。

砂漠と異人たち読んでからほんまにしんどくて悪夢率が高い。