安全感からの闘争、繋がり

  • 「観光客の哲学」の第一章を読み終えた。

途中でちょっとわからんの放置しながら進めてたら、「郵便的マルチチュード」からよくわからんくなってしまった。
第三章までの盛り上がりはすごかってんけどな~。「家族の哲学」を読み終えてまたゆっくり考えよう。
少しだけ「家族の哲学」を読んだが「家族」のアイデンティティに着目してて俺にはこっちのがより深くいけそうな予感。

最近見つけたアカウントで似たような同志を発見した。
ほぼ同じ食材、同じ食器で鶏むね肉をよく使い野菜多め。
その人が黒米を米に混ぜているんやが見た目的にいい感じで真似しようかなと思う。
今はもち麦と玄米を混ぜている。もち麦は食物繊維、玄米は低GIにして吸収を穏やかにしようということだ。(ダイエットガチのガチ勢)

  • 水泳。中国人。(いつもの笑)

中国人は今月15回来たらしい。俺は14回だ。お互い今月はすごい笑
彼はまだまだ世界水泳にハマってるみたいでまた、新しいゴーグルをしていた。
今回のはなによりの特徴が、眼鏡の肌にあたる吸盤のようなゴムがなくてそのまま肌に当てる構造になっていることだ。
これによりわずかな水の抵抗を無くし、スピードを上げる。
しかし、そのレベルではない笑
嬉しそうにゴーグルを試していたが、骨格に合わないらしく痛いわ、水が入ってくるわで散々そうだった。
途中で隣で泳いでいる奥さんに渡していた。

彼の名前を聞こうかと思ったがまた聞けなかった。
聞くと次からは名前で呼ばなければなにか変だよなと思うとなにか聞けなかった。
ジムの人たちでいくつかのグループがあるんやが、どのグループでも名前を呼びあってる姿を見たことがない。
きっとみんな「ジムにいる~~な見た目の~~な人」という認識で「繋がっている」のかなと思う。
そういうのはよくわかる、名前こそ知らないがその場においてのみ、そこそこ通じ合っているみたいな。
なにか哲学的な感じがする。
俺はここに名前を導入してどうなるか感じてみたい。
中国人に名前を聞かなければ。

最近、プールの人とよく「繋がっている」なと思う。1年でたった3人やけど。

  • 仕事で設備の人と少しトラブルになった。

俺はショッピングモールで働いている。煩雑な具体的なことは書かないが、昨日、設備の人に頼んだ修理が全く無視されていた。態度も悪かった。
好意的に受け取ることも可能だが、(つまりは忘れていたとか、などなど)俺は設備からの敵意を感じた俺も敵意が出てきた。
今日、同じことを頼んで、来てくれて修理してくれたがすごい雑だった。引き留めてちゃんとしてほしいと言ったら、「そっちでできることはそっちでしてくれ。俺たちの仕事の領分じゃない。俺たちは奴隷じゃない。」と言っていた。
軽く言い合いになったが、結局修理してくれて帰って行った。

その後、売り場の人、3人に愚痴った。

設備への依頼自体がそもそも上司からの依頼で、その上司は気が小さいから俺に頼むように、頼んできていたり、(この人が直接指示しれてればトラブルになってもスムーズだった笑)
設備に頼んでいることが「そっちでできること」かの判断に個人差があったり、
仕事の領分が不明確だったり、善悪の判別は難しい。というかそれが本題ではない。

  • おれは「負けるが勝ち」といった基準で生きがちだった。

つまり、なんの利もない言い合いは相手の気分がいいように負けておいてカロリーを節約しよう。みたいな感じだ。
しかし、今回は闘争した。善悪も不明瞭の中、ムカつくから言い合った。

もう一つの基準、「負け犬みたいになりたくない」
つまり、人にぐちぐち言う自分が嫌だった。終わればさっぱり忘れてるのがかっこいい。「俺は忘れてるんだ」と体を取っていた。

実際、「負けるが勝ち」と「負け犬みたいになりたくない」が組まれると10年レベルで心に残る。
今回は「闘争」して愚痴った(繋がり)。
多分、今回のことは心に残らないと思う。


水泳での「繋がり」、職場での「闘争」「愚痴」。
これができるようになったのは、なにか安心感が増しているからだと思う。

なぜ、安心感が増しているのかはわからない。
父性的な力が増してきたんやろか。父性的な繋がり、父性的な闘争、、


昔にも数回、他で似たような言い合いがあった。
今回、おれはけっこう威圧的だったと思う。
しかし、毎回、声の震えが止まらない。
震えを抑えるのに必死で、相手に気付かれているのか、どんな話をしているのか、周りはどうなってる。
こういう時に声が震えなくなったらいいのに。