レイモンドカーヴァー「大聖堂」 感想、解釈 精神分析的

  • 「大聖堂」の気になるところを逐一、切り抜いて感想を書く。

精神分析的解釈です。ページ数は村上春樹翻訳ライブラリー準拠。
専門用語をあまり使わないでおこうとしたら余計に変になって読みにくくなりました。
途中からメモ程度に書いてます。

あらすじ(個人的)
私には妻がいる。だいたい中年ぐらい。妻は昔、盲人のもとで代読の仕事をしていた。
その盲人の奥さんが亡くなった。盲人が私の家に泊まりに来ることになる。私は不快な気持ちになる。
食事や会話などを通じて盲人の父性的存在感が強くなる。
テレビを一緒に見ていたら、「大聖堂」の説明がされていた。盲人は大聖堂を文言でしか知らず本当のところがわからない。
私が「大聖堂」の絵を描き、盲人がそのペンを握った手に手を添えることで「大聖堂」を知ろうとする。

p379 夫が産軍複合体の一部品となっていることも嫌なのです。

妻の元夫は現実にしっかりコミットメントしている。〈法〉の支配に入り込んでいる人間ということで、それ故に妻の次の夫は「私」になったんだと思った。
後の展開で「私」はなにも信じていないことが明らかになる。元夫は産軍複合体の一部品であり国家を信奉している人物だ。
それは権力(ファルス)を持つ者と言い換えることもできると思う。
それに比べて、「私」は盲人との会話からして幼く、妻はその幼さならば飲み込め自分の支配下におけると踏んだんだと思う。
妻がこの幼き夫を得れたのはあくまで盲人との文通によって支えられていたからだと思う。

つまり実質、私(子)盲人(父)妻(母)というのが俺の見立てだ。

なにも信じるものがない「私」に〈法〉としての盲人が入り込み「大聖堂」(本当の自分、主体)へ至るってことやな。
(ここでの〈法〉は無意識、〈他者〉、言語構造と言い換えてもいい。)

産軍複合体と「私」はファシズムポストモダンの対比と言えると思う。

盲人設定

盲人で現実的に力はないのに、実際は「私」の妻に慕われている。
ここに盲人には見せかけの権力(ファルス、父性と言い換えてもいい)、があるという演出があるんだと思った。

(また、盲人は瞳に自分が映らない。よって鏡像段階的関係、想像的関係が成立せず「対象としての自我」が安定しなくなる。「私」は一気に〈法〉の世界、象徴的関係に引き込まれ、受け入れがたい無意識が本当の自分(主体)に向うことになる。これは受け入れ難く、非常に危機的な状況で根源的な居心地の悪さに繋がる。)

p383 「一心同体」は私の妻が発した言葉だ

ここに「私」の「一心同体」への嫌悪感を感じるように思う。
というのも想像やけど、「私」と妻がこの物語が始まるまでは「母―子」的な「一心同体」やったんじゃないかな。(想像的関係)
盲人の表れによって自分自身が「一心同体」という言葉が受け入れがたくなり、それは妻が発したんだと強調せざるえなかったんじゃないかと思う。(投影)

p384 盲人の妻は化粧しなくってなんの関係もない。気の毒だ。

まだ、盲人と会う前だ。この時はまだ想像的敵意を向けれていた。(妻の〈法〉という理想自我の奪い合い/双数–決闘関係)
実際に会うとどんどん想像的なことは働かなくなる。
盲人とは「対象としての自我」(ペルソナといってもいい)同士の関係は結べない。
(強制的な鏡像段階の不可)

p390 まるで明日という日がないといった感じの食べ方だった。

願わくば食事中に電話が鳴って、食い物が冷めたりしませんように

食べ散らかした食卓をあとにした。後ろは振り返らなった。

ストロベリー・パイも半分食べてしまった。

このへんちょっと謎やねんけど俺的な解釈を書いておくとほんまになんとくなくやけど「食事=性行為」となっていると思う。
「食い物」という表現がなにか本能的な感じがする。

「電話が鳴らないように」や「後ろは振り返らなかった」というのはよくわからん。

ストロベリー・パイは性器のメタファーやと思う。

思えば、この3人を父、母、子とするなら近親相姦的かも?

p394 妻はピンクの部屋着にピンクのスリッパ

「ストロベリー・パイならまだ残ってる」
「もう少し召し上がる?」
「あとで、たぶんね」

「ねぇロバート、ベッドの用意はできてますから」

あの食事のシーンで盲人と妻は実質、性的な関係になっていたと言っていいと思う。

p398 疲れません?もし疲れたら上につれていってあげますよ。

「私」はもはや盲人に妻を献上している。
「母―子」の関係が「父」によって分断されるエディプスコンプレックスをそのまんまやってる感じだ。
そののち、まさしくエディプスコンプレックスの出口の「父」との同一化がある。あの「大聖堂」の共同描写は「私」と「盲人」の同一化的儀式と言ってもいいと思う。
もちろんそれプラスで自分自身を受け入れるということも同時進行している。

p395 カラーテレビつけっぱなし
少し前に買い替えたんです

なんでカラーテレビなんやろ。
ソファもテレビもなんで新しく買い替えたことが強調されてるんやろ。
なぞや。

p401 大聖堂建設、一生をその作業に費やすこともある
われわれだって大同小異じゃないか

明らかにここで「大聖堂」はなにかしらの一生のことのメタファーだとしていると思う。
俺はそれは本当の自分に触れる(主体)のことやと思う。

ラカン的に整理すると、大聖堂=主体、盲人=法、私=自我)

p402 頭のおかしい男がさあ説明しろ、さもなくば殺すぞと迫ってきているとしよう

少し流れから浮いてるような文章やけど、「私」の〈法〉が不安定なため妄想癖があることの表現やと思う。(分裂病

分裂病は今の言い方やと統合失調症ラカンの分類では精神病にあたる。
しかし原理的に精神病者に〈法〉は皆無なので、ここで矛盾が出てくる。
追記に詳しく書き残す。

p404 イエスかノーで答えられる簡単な質問なんだ。

村上春樹作品の登場人物ならなかなかこんなこと言う人おらんやろね笑
ここでも「イエスかノーで答えられる」という世界観に生きている人物。父性的な人物だと強調されている。顎鬚もめっちゃ触ってたしね。
村上春樹批評でよく使われる言葉でいうなら、この盲人は「大きな物語」を持っている人物といえる。

p404 目くばせしたって盲人には通じない

何を信じてもいない。だから時々きつい。

普段ならば口に出さずに目くばせで相手が「察して」くれていた。(想像的関係)(a–a´)(空のパロール
しかし、盲人にはしっかりと「口に出さ」ないといけない。(充溢したパロール
この差は非常に大きい。




ふぅ~読めたもんじゃないやろな
いいや

追記:
フロイトラカン」考察

1、神経症と精神病の差異
2,フロイトラカンの考察の違い
3,「ふつうの精神病」

俺にとって今このへんが問題となっている。

新疾風怒濤精神分析入門事典p41「否認」に注目している。
「否認」とはペニスの不在を一方で「承認」一方で「否認」すること。


まだ知識が曖昧なんやが、フロイト上での「精神病」は〈法〉との断絶が完璧にされていることを指す。
そして、統合失調症は精神病に分類される。代表例は「世界崩壊体験」

しかしおれは中途半端な状態が非常に多いと思う。
ある場合やタイミングにおいて、〈法〉と断絶されたり支配されたりする、「世界崩壊体験」の弱いバージョン「死に繋がる妄想」があると思う。

これが「大聖堂」での「私」の妄想みたいなものだ。

「世界崩壊体験」のようなものは現実と乖離しているため明らかにおかしいとなるみたいやが、
「死に繋がる妄想」は少し現実と繋がっている。つまり自分の異常性を認知できるため隠すこともできる。

「大聖堂」の私も現実との文脈の中で妄想しているし、俺の恐怖症のひとつの感染症恐怖も現実との文脈があることにはある。
〈法〉がないわけではない、不安定ということだ。

ここで、〈法〉(父)に苦しむ神経症でも、〈法〉がわからない精神病でもない何かじゃないかとなる。


「否認」はペニスベースやけど〈法〉とすれば、一方で〈法〉を承認、一方で否認なんで
「死に繋がる妄想」を呼び起こす統合失調症的なやつの説明の鍵になるように思う。


「ふつうの精神病」なるものがあるらしい。
ここでもうなんやねんとなった笑
もうなんでもありやん笑
しかも「ふつう」てラカニアンとしてどうなんて思う。


追記:
読み返してなんか変かもって思った
とにかく問題は精神病=分裂病統合失調症は〈法〉がまったくわからないということだ。
ときどき〈法〉がわからなくて、ときどき〈法〉に苦しむ
みたいなのがあると思うんやが

追記:
父=〈法〉
父に苦しむのが神経症
父がわからないのが精神病
父が馬鹿に見えて仕方なにのが倒錯者

俺は〈法〉がわかるとき場面において神経症だし〈法〉がわからないときは精神病っぽくなる。
そして自覚している苦しみのメインは統合失調症っぽい感じで精神病だ。
精神病の定義の厳しさがやっぱり問題だ。
なんでもいいやんという感じる人がほとんどやと思うけどおれはしっくりきたい。