大聖堂

先日、レイモンドカーヴァー、村上春樹訳の大聖堂を読んだ。
ややネタバレになるのだが、

主人公は中年ぐらいで妻がいて、その妻には盲目の男性の文通相手がいる。
盲目なんで、文通というか音声を吹き込んだカセットテープを交換している。
妻は主人公と結婚する前に、その盲目の男性の部下として働いていた。
盲目の男性の妻が亡くなったのでなんやかんやで、主人公の家に泊まりにくることになる。
主人公はそれをめっちゃこころの中でうざがる。

みたいなイントロで、

その盲目の男性の包容力??(このへんのこの盲目の男性の魅力を言葉にすると一気にチープになるんやけど、、)
まぁとにかく主人公はその盲目の男性への嫌悪感と包容力?を感じつつ微妙な塩梅で物語は進み、

最終的には盲目の男性は盲目ゆえに「大聖堂」がどのようなものかわからないから、主人公が大聖堂の絵を描くことになり、盲目の男性は鉛筆を握っている主人公の手に手を重ね
「よく書けてるじゃないか」となる

みたいな感じなんやけど、、


この主人公と盲目の男性が手を重ねて一緒に「大聖堂」を描くシーンが俺には懺悔のように感じた。

そして昨日そのような懺悔のようなものしてきた。




というものブログに書いたけど、俺のネット上の活動から知ってくれて連絡を取っている人と昨日会って話してきた。
対面で赤の他人と(つまりはカウンセラーじゃないということを言いたい)深い話をするのは初めてやったけど緊張することもなく会話できてよかった。

俺はその人に騙していたことがあって(俺がこだわってるだけで相手からしたらどうでもいいことかもしれないが、、)
それの懺悔、、といったら大袈裟かもしれないが怖さはそれぐらいあった、懺悔?告白?をしたかった。
無理やり大聖堂に寄せてうまぶって書こうとしすぎか笑笑

胸にしこりを抱えながら話していて、最後の最後の終電30分前ぐらいにやっと告白することができた。

俺はずっと嘘をつき続けるんだと思っていた。受け入れられる人間の範疇という想定がありその想定内に収まるように適宜、嘘をついていた。
そのままの自分が受け入れられるということがあるなんてということが信じられなかった。
今も正直あまり実感はない。

ここ数日、多分、気持ちが落ち着いていない。
躁でも鬱でもないような。

昨日、たくさん交わした言葉はまだ消化されていないんだと思う。

他にも書くべきことがたくさんあると思うが今はこれしか考えられない。
うまく書けないのでこのへんにしておく。