小説

小説ってなんなんやろか。もしくは小説を書くとはどんな感じなんやろか。
ちょっと前から漠然と自分の小説をもしくは物語をもしくは語りを作れたらいいなと思っていた。
たぶんブログで書くのは初めてだと思う。読書好きが自分でも作れるんちゃうんみたいな勘違い感があほっぽくて恥ずかしい。
NOTEに実際の夢を文章化したのを小説とうたって書いているがあんなん小説とは認められない。少なくとおれは。(ただ内容は良いけど)

ブログは簡単に書ける。書きたいという衝動がまずあって、書いてる時間が即自己表現の達成というか、とにかくブログを書くのは喜びだ。集中力の限り書くことができる。

小説は書きたいという衝動がないので書けない。
というか、小説ってほんまになんなんやろか。なんでも小説とうたえば小説になりうるんやろうけど、そんなんは意味が無くて、とにかく自分がなにか小説的だと思い納得できたらそれは小説だ。
この文章はブログ的だ。小説ではない。

思ったけど、いや、つまり
村上春樹が書いてたけど自己を相対化することで小説は書けるとか書いてた。
相対化ってなんやねんって思うけど、それって何か小説人格みたいなものを設定して、そこから自分を見つめて文章化したり、物語に乗せたり、語ったりするということなんやろか。

つまりは演じるというか、フィクションノベルとしての神髄は語りの視点のフィクション性にあるんやろか。
ほんまの自分が語ったらそれはブログになる。そんな気がする。

しかし、それにはやっぱり演じれる余裕みたいなんが必要やと思う。
俺はずっと自分を出すのが怖くて演じてきていて、ここ一年ぐらいは今度は演じるのが不快すぎて生のままの自分を暴走させてしまっている。(ブログでのみやからだいぶささやかやと思うけど笑)
そして、俺の感覚では「本当の自分が認められることはある」とかそういう場所を持っていたりすると、演じる余裕も生まれるんだと思う。
演じていても本当の自分はしっかり担保されてるんやし、他人からズレた理解を示されても余裕でいられる。
そういうのは定型発達では両親が与えてくれる感覚だと思う。こんなこと書くと面白みがないけど俺はカウンセラーだったり友人だったりブログだったりでその感覚を育てていると思う。正直ね。

ほんまに自分が思ってる小説ってなんなんやろな~。
その人自身に根差していることで、いろんな人に開けていて、、、、なんなんやろね~
この文章はさすがにブログよね(何回確認するねん)

まぁええわ。
文章を書くということで俺はめちゃくちゃなことはしたくない。
文章を書く時間や行為自体、イメージにある自分の文章世界は本当に大事にしたい。これが無くなると大変だ。

追記:
読み直してて思ったけど、「イメージにある自分の文章世界」とかかっこつけて書いてるけど、たぶんそんなんが無いからブログ的なんやと思った。別にブログはブログでいいんやけど笑
先行した描きたい、捉えたいイメージがあってそれを書こうとしたら、文章は自ずと小説的になって、その時、視点はフィクション交りになっていかざる得ないんちゃうかな。

ブログ的とは報告的ともいえるかもな~。

小説とはっていうは本当に深く考え込んでしまうことや。