なんの引っ掛かりも無く自分の内側に生まれた愛情を受け容れれたらいいのにな。

あえて「感情」ではなく「愛情」と書いてみた。
ついさっき見ていたブログで、「愛情」について書かれたいたのでそれに影響されてのことだ。
「愛情」と書いてみて気持ち悪いから「感情」と書き直し、また「愛情」にした。
俺が常日頃、、、というかブログやその他の発信において「感情」と書いていることの多くが「愛情」のことを言っているんじゃないかと思う。

こういうことを書くとなにか精神的に調子が悪そうに見えるかもしれないが、そんなことはなく、実はここ最近はかなりの絶好調だ。
バイト先では社員やパートの人といつもに増して自分自身なんの引っ掛かりもなく話せているし、ジムでも似たような感じだ。

何か、正直に書くと、働きに行き、いつも人たちと会い話すことや、ジムで人と話すことが楽しく感じ始めている。
というか、もともと楽しかったはずだ。ただ、「楽しくてはいけない」と感じがたぶんしていたので、「楽しくない」としていたかのように思う。
働きに行き慎重に働き、会話を楽しまず、ジムでもトレーニングをして、慎重に人と話す。それが俺を支えていたストーリーだったのかもしれない。

特にジムでの話。
ザ大阪という癖の強いおっちゃんにジムで会うたびに話しかけられていることは以前のブログに書いたと思う。そして、巨大中国人。
俺は明確にそう思っていたわけではないが、この二人や従業員の人たちに話しかけられるのに嫌な気持ちがあった。
人と話すのは大げさに書けばそのたびに一世一代の大博打をしているような気持ちになり神経を使うからだ。その反面、話していて楽しい気持ちにもなる。
最近はその楽しい気持ちになっていることにより意識的になったきたように思う。
普段、ジムに行くとき、ほんの少しだけ気が重い。それは正直に書くと色んな人達と話さないといけないからだ。
しかし、いざジムに行くとその嫌だった人と話すということが何より楽しいことになっている。
この鮮やかな矛盾に気付いた。
俺は一人でいるとき、、、具体的には4時間ぐらい、、、?でも、シャワー一回分ぐらいでも、、、
自分の世界を守る物語を反芻する。
それは例えばジムでこういう会話があって、もし、こんなひどい喧嘩になったらこう言おう、、とかだ。(口論の妄想はけっこう多い)
しかし、現実は口論どころか会話を楽しんでいる。
明日もジムに行くつもりだが、今、自分は明日、ジムに行き誰かと話すのを楽しみにしているのかよくわからない。
こういう感覚はたしかに昔あったかのように思う。多分、楽しみにしているはずなのだが、なにかそんな急には受け容れられないといった気持ちだ。

ブログの更新はかなり久しぶりになるが、空いた時間はほとんど読書をしていた。
実は非公開のカウンセリングブログも4回分書けていない。
昔はもっと必死になって書いていたけど今はそこまで必死な気持ちはない。
無理やり書く必要もないなと思いつつ、一年ぐらい続けたことだから、どこかでまとめて書かないと、という落ち着かない気持ちもある。
カウンセリングの内容のメモや日々思ったことをメモしているが膨大なため探すの億劫だ。

ブログを書くのもかなり億劫な気持ちになっていた。
というのも書きたいこと多すぎたからだ。たくさん思うことがあり、それをメモしていて、溜まりすぎたのでそこで行動不能になっていた。
今はなんとなく、書き始めた。こういう書き方が一番、気持ちいいなと本当に思う。
メモを見ながら、項目を消化していく書き方は何度もしたことがあるが、まず書いていて楽しくない。
俺の文章が俺の物語をやわらげてくれるように思う。

このブログは一応、ツイッターから飛べるようにリンクをプロフィールに貼っていたがそれを外すことにした。
俺にとってこのブログはあくまで公開されているという感覚が大事だった。(今でも公開されているが笑)
それは、、、これも言葉にすると身も蓋もなく恥ずかしいけれど、、自分がどこまでも自己開示しても受け容れられるんだということを試していたんだと思う。
カウンセリングにもそういう面がある。
その受け容れというのは実際に起こるかどうかは問題ではなく、そういう心的リアリティが自分の中であるかどうかが問題であって、俺は少し満足し始めているのかもしれない。
なので、、、というのもなんか変な感じがするけど、このブログにはツイッターから飛べないようにして、少し隠れたところでやっているような感覚で書くことにする。

以前までのブログ記事は大げさに言えばリストカットに近いようなニュアンスもあったと思う。
かなり控える気持ちで書いていたけど時に生なましい傷口を見せるようなことも書いていただろう。
これからは文章上の変化はないと思うけれど、少し、親密な気持ちで書くような感じにしたい。