ドバイ、エジプト旅行で友人にカウンセリングに通ってることを告白した話。

  • ブログに書いていた通り、旅行中にドバイ勤務友人(M)にカウンセリングに通っていることや、自分のことについて話すことができた。

帰ってきて二週間が経ち、自分のなかでいろいろな出来事の評価が落ち着いてきたので、書き残しておこうと思う。
この記事で扱うことと無関係にいくつかの考えが旅行中に浮かんだがそれはブログに書くほどのことなのか、メモに残しておくだけのことなのか迷い中。
旅行自体、非常にユニークで面白いものだったので、旅行記のようなものを動画で楽しい感じに作りたいと思う。わかりやすく楽しいのは動画で、よくわからないこころのことはブログでというのが自分にとっていいように思う。

  • Mに自分の話をし始める前に、俺は、入念に準備をしていた。

それはあまり深くまで話を進めないということだ。俺は自分自身の話がかなり深い段階までいっていると自覚し、一挙に人に伝わることはなく、何度かに渡って話すべきだと確認していた。
その自覚により、かなり浅い段階で話を区切る算段ができて、難しい話をどう伝えればいいかという苦しみはなくなり楽になった。

なんとか二人になれる時間を作り、準備していた話をした。
内容は、
『俺には元カノがいてその人から家族の話を聞かれた。俺は応えることができなくて自分自身になにか違和感を感じた。家族関係に重大なトラウマがあることがなんとなか察せられて、その時期に村上春樹やカウンセリング関係の本にハマっていたのも相まり、近所のカウセリングルームに通うようになっている。』
ということだ。
そこからさらにどういった内容を話しているだとか、家族関係の具体的なトラウマには踏み込まないように気を付けていた。
そこまで行けばお互いにキャパオーバーになると思っていた。

話を終えるとMからは解釈や質問がかえってきた。
そもそも、Mは親族や友人、彼女からそういった相談に慣れていてるのはわかっていた。
誠心誠意、耳を傾けて、親身になってくれていると感じると同時に、Mの中の自動的な処理システムの流れに入って行くのを感じた。
Mの中の理解できるおさまりどころにおさめられていく感覚だ。

Mの解釈や質問は分類するためのことだった。
俺の理解の精度を高めようと、二者択一の質問が連なっていった。(具体的な質問内容はどうしても思い出せない。後述するがこのときは質問内容よりも会話の方向性に注意が向いていた。)
Mの算段ではその先に固定された地点がありそこからビルドアップすれば解決するということだったんだと思う。
なんとなく、肌でそのような雰囲気を感じつつ、俺はMの二者択一の質問の流れに乗って行った。
おれの思想からすれば真逆の方向に行っているのは明白だったが仕方のないことだと思った。
俺の話は矛盾をはらんだ非常に不安定な状態だから、それをなんとかして整理し安定させたいのだと思う。

カウンセリングの場ではないということも強く自覚し注意していた。
Mの態度や表情には真摯があった。

Mの二者択一の質問が重なりだして、おれが”理解”されだしているように思った。
そのあたりで危ないと思い、自分自身の矛盾性をアピールした。

その時の会話のトピックは親についての想いや親孝行についてだった。
俺は親とは絶縁したいが親を求めている気持ちもあると明確な矛盾を示した。

Mは終始、俺の話は単純ではないのだろうとという枕詞のもと、単純化を図っていた。
そこには俺がこれ以上深みを歩を進めないように、防衛が働いていたのかもしれない。
解釈的な網目を張って理論上での話の維持、現実的な理解、対応策への角度ばかりだったと思う。

実際、会話の半分はMが喋っていた。

俺の話は本当の話だ。
それはM自身の受け容れ難い本当のことも誘発してしまうのだと思う。
この誘発による事故を俺は恐れていた。
実際としては安全に解釈され”理解”されたように思う。

Mは非常に親を大事にしていて、友達も大事にしている。
親は本能的にやはり大事なものという認識で、自分みたいな人間とずっと友達でいてくれている友人へは感謝の念が強いみたいだ。
俺はMとは根底に似たようなことがあると思っている。だからこそ話したわけだが、今回はそこまでいけなかったように思う。
俺は準備もタイミングもばっちりだが、相手からしたら自分のこころへの準備もタイミングも全くできてないわけで仕方のないことだと思う。Mは現実に生きている。

  • Mへの告白には深い感動はなかった。

S君への告白や結婚式の一件ではカウンセリングで報告しているときによくわからないタイミングで、制御不能の涙が溢れていた。
それは自分自身が他人に受け容れられたという実感からの歓喜の涙のようなものだったと思う。
今回のは、俺としても自分自身を抑えつけて伝わりやすいことを心がけていたし、Mの方としても、理解しやすいように現実的な処理を施していた。
お互いにこなしたような感じになったと思う。

カウンセリングと現実の違いをよく思い知らされる。
カウンセリングではカウンセラーが俺が危険なところまで歩もうとするのを見守ってくれている。俺は入念に準備をしてじっくりと危険なところまで歩を進める。
現実では、危なそうな穴は全て現実的な網の目によって瞬時に補修される。出来合いの理解の範疇に収まる。
それはお互いに安全なことだ。絶対に腐らない添加物たっぷりにマクドナルドのバーガーのように。
おいしくて、安くて、早くて、安全。

この会話は第一回目なんだと強く意識していた。これからも関係は続く。
そのことを会話の最後にも伝えておいた。
しかし、今となっては俺にはさらに会話をこちらからもちかけようという欲求はない。
俺はMにボールを投げたという感覚だ。返球待ち。
これ以上俺から何かを言っても余計に伝わないと思う。Mが生活をしていくうちで俺の話が熟成したり、なにかが起きたときにボールは何かの形をもっていて返ってくると思う。
ずっと返ってこないこともあると思う。それはそれでいいと思う。

当初の予定ではM、結婚式の新郎、弟と話していく予定だったが今はあまりそのような気持ちにはなれない。
誰に話してもこのように現実的な網に絡めとられて肩透かしに合うだけだろうと思ってしまう。
同時に、ひとまず相手にボールを投げるということだけでもしておくべきだとも思うが、、
しかし、弟だけは特別だ。弟にはやはり話すべきだと思う。
そしてこの流れの先にはどう考えても両親がいる。

最後はきっと両親に話すことになるのだと思う。
両親に話すときには、俺は話したい事や感情を思いのままに話すのが、なにより自分にとって意義がある思う。
そうして今まで甘えられなかったことによる傷が、回復していくんだと思う。
しかし、それができるイメージはない。
おれが話すとしたら両親を傷つけないように、慎重に、パニックならないようケアしつつ、言葉を選んでできるだけ冷静に話すと思う。
それだけでも価値があると思うが、なんだか虚しいもんだ。

  • カウンセリングと比べて旅行中は非常に意識的な世界にいたと思う。

言い換えれば無意識の世界の怖いところに行かないようにみんなで共犯的に意識世界上で楽しんでいるということだ。
ちょっと悪いように書いているがそれは普通だということだと思う。現実的な旅行だったと言ってもいいかもしれない。
三人とも現実的だった。現実的な、嘘の、寂しくない世界。
そこに俺は疲れたと思う。少しは無意識の世界に潜りたかった。虚構的な本当の寂しい世界に。

思えば、旅行の最終日に近くにそれを示唆するような夢を見ていた。
俺がベッドから出ようとすると、旅行同行者の二人が出れないように俺を抑えつける。俺はとても苦しむ。目が覚めるものの、実際にはまだ夢の中で、同様のことが何度も、繰り返される。
実際に起きたときに、夢の中で夢が繰り返していたことがわかる。といったものだ。苦痛度合いが高く、人の家のベッドで見ていいようなレベルの悪夢ではなかった。その後は自分が寝ている最中、うなっているかもしれないと思い怖くなり、ソファで寝た。
俺の人生は今までずっと現実的な嘘だらけだった。ずっと旅行中の時のような感じで生きていたとすると、よくそれで耐えていたなと思う。

逆にカウンセリングは本当だらけだ。それは現実離れしたことで、理路整然としていないことだ。
そして誰とも共感することはできない。純粋な本当なことというのは孤独だ。

旅行から二日後のカウセリングルームは居心地がよかった。ここでは本当になれる。

本当なことばかりでも、それはそれで、しんどい。
カウンセリングの日々が続くとき、夢が続くときは本当だらけで、しんどくなっていたように思う。
そういうときに巨大中国人と、現実的な、嘘の、寂しくない会話をするのはすごい癒しだったように思う。

嘘と書くのはちょっととげとげしいかもしれないが、あえてそう書いてみている。
人と繋がるためには言語を使わないといけない。お互いに言葉を使わなくとも、言語構造に生きる人間は、表情や仕草も言語構造を通して受け容れられる。嘘を経由しない限り人と繋がることは無理だし、嘘が人を繋いでくれている。

現実的な嘘。虚構的な本当。
俺の目指すところは「現実的な嘘」の世界で「虚構的な本当」を守り切り、ひそかに混ぜることだ。
書きながらにして思うが、村上春樹の現実世界の話とファンタジー世界の話を平行して進めるのも、「伝わらない本当の話(ファンタジー世界)」と「伝わる嘘の話(現実世界の話)」とを織り交ぜていたんだと思う。

本当と嘘が混じることが大切だと思う。
俺の人生のほとんどが嘘だった。本当になれる場所がなかった。
カウンセリングでは本当しかない。現実でも嘘を毛嫌いするようになっていた。
しかし、本当だけだと人は孤独になってしまう。
自分の本当のことを大切に守ったり、嘘に混ぜ込むのが処世術なのだと思う。

最後に、旅行先で話すというのはいいことだったと思う。(相手は生活の場だが)
しかし、ドバイという場所は少し深い話をするのには適さなかったのかもしれない。なんとなくそんなことも思った。