万延元年のフットボール 感想 ネタバレあり

まずめちゃくちゃボリューム多すぎるやろこれ笑笑笑笑笑しかも文章も今までで一番読みにくかった。
大江健三郎は獰猛すぎる。よくこんな暗くてじめじめして気持ち悪いことを想像して書けるなと思う。たしか「われらの時代」のときにアル中なってたらしいけど、ほんまに納得する。
よく正常でいられるなと思うが、万延元年のフットボールを読めば大江健三郎もこんなふうにして正常さを保っているのかな?と思ったりする。

内包してるテーマが多すぎる。(天皇、戦争、実存主義構造主義、堕胎などなど…10個ぐらいあげてるブログもあったがおれは忘れた)
しかしながらそれを【「万延元年」の「フットボール」】の構造で全てをカバーしきったのはやっぱりすごいことなんやと思う。(目の前に富士山が見えたときそのスケール感がわからないようにおれもこの小説のスケール感をいまいちわかってないと思う)

穴蔵にこもる主人公、そして曾祖父。村上春樹もよく出てくるああいうの。
村上春樹のときは思わんかったけど大江健三郎の穴演出で思い出したのは、自分も机の下とか押し入れに入ってなにかしらのトランス状態という冥途巡りのようなことをしていたのかと思った。(言い過ぎ??)

最終的には主人公も先祖や弟みたいに「本当のこと」を探そうとなる。僕はまだ見つけてないからそうやって生をまっとうするんだとなる。
特異なあまりにも厳しい問題を抱えた主人公がパターン化される。たしかにめちゃくちゃ苦しいと自分もいちパターンであってこうすればいいんだとわかればすごい楽。
思い出したのは金閣寺の主人公。あの人は凡人的だったから、一回性の私特性のものがほしがった。万延元年のフットボールは一回性の特殊事例じゃないということで救われる。
ここは真逆なのかなと思った。

構造の中に入るということは難しい。鷹四は劇的な演出をもってして念仏祭りのパターンを踏襲できた。三島由紀夫切腹をもってして武士のパターンを踏襲できた。
こう考えると金閣寺の主人公と三島由紀夫は全くの真逆。もしくは金閣寺の主人公が金閣を焼いたあとにその後に構造に入る関門が待っている?
金閣を燃やすという祭り的日々が過ぎた日常では構造に入らなければ耐えられないのでは。

なんかもっとすごいことがあるんやと思うけどぼーっとしてしまってよくわからん。