脱構築? 距離を保つ 視線がカーブして戻ってくる 金閣寺 三島由紀夫 デッドライン 千葉雅也

金閣寺 p129

問題は、俺と対象との間の距離をいかにちぢめるかというこにはなくて、対象を対象たらしめるために、いかに距離を保つかということにあるのを知った。
そのとき俺は、そこに停止していて同時に到達しているという不具の論理、決して不安に見舞われぬ論理から、俺のエロティシズムの論理を発明したのだ。

おれは見ると同時に、隈なく見られていなければならぬ。おれの内翻足と、俺の女とは、そのとき世界の外に投げ出されている。
内翻足も、女も、俺から同じ距離を保っている。実相そちらにあり、欲望は仮象にすぎぬ。
そして見る俺は、仮象の中へ無限に転落しながら、見られる実相にむかって射精するのだ。
俺の内翻足と、俺の女とは、決して触れ合わず、結びつかず、お互いに世界の外に投げ出されたまま。
……欲望は無限に昂進する。
何故なら、あの美しい足と俺の内翻足とは、もう永久に触れ合わないですむのだから。


ここで俺の女って?
自らの女性性ともいえるのでは。

なんかここ本当に難しいところだと思えてきた。
距離を保つ、内翻足と美しい足の距離
足が実相、性欲は仮象
無限に美しい足に性欲を昂進させ、見られている内翻足に射精する
射精してるのはまた自分自身よね

つまり?

相手の美しい足を見て、相手の美しい足に性欲を昂進させ、射精は自らの内翻足に向かう。

デッドラインの「視線がカーブして戻ってくる」に似てるような気がするけどどうなんやろ
距離を保ち安心安全圏でのオナニズムともとれる?
よくわからんがとりあえず書いておいた。


現代思想入門を読んだときは脱構築をわかった気でいたけどやっぱりあんまりよくわかってないと思う
三島由紀夫脱構築していたのか
そして暁の寺天人五衰の読みにくさ、受け入れがたさもそこにあるのか


ちなみにこの論理を主人公は嫌がる
ポイントは静止して到達しているということやと思う
それがこの認識派のきついところやと思う
主人公は心が浮き沈みしてほしいと願う
しかし、主人公の行動路線も結局は日常が非日常になってもまたその非日常自体が日常になるように袋小路やと思う

視線がカーブして戻ってくる+波がいるんやと思う

どうなんやろか

追記:
しかしなんなんやろか、言葉のセンスというか感覚のセンスというか
今の小説の言葉の感覚ってめっちゃ難しいな
言葉の範囲の限界に挑戦してる感じがする
視線がカーブして戻ってくるとかさ笑

てか、書いてて思ったけど、視線は認識みたいなものなのか?
視線が僕の奥に遠く伸びている感じするとかデッドラインに書いてたし
いやでも視線は視線よな
それこそテクストに忠実に線は線や

円環と線

停止した世界と線??

ぐるぐる回る世界と移動中
また新しいぐるぐる回る世界に飲み込まれる

みたいな???