勉強の哲学 千葉雅也 

ぜんぜん関係ないけどこの本でおすすめされてたアウトライナーで書いてみたけど
アウトライナーからじゃうまくコピペできなくて今また手打ちで書いてるばりめんどい最悪や

「享楽的こだわり」と「非意味的形態」と「こだわり」
こだわりは偶然な出会いによって生じたもの
何事なのか考える余裕もなく早く強くなにかが自分にぶつかってきたこと=「強度的」
その不快かつ快(まぞ)を繰り返し味わうのが享楽

享楽的=強度的(無意識は強度的で偶然的で変化は可能だと言っていると思う)


理想的な有限的な勉強のフロー

保守状態→疑念が出てくる→アイロニー(深堀)→限界がくる→ユーモア(横にずれだす)→接続過剰→こだわりである程度のところで仮固定される→こだわりに疑念が出てくる→最初に戻る

「こだわりをもってしてある程度のところで仮固定」ここに個人的に最大の問題が出てくる
こだわりに気付くには自分の出来事にかえっていき分析する必要がある
筆者はまさしくこれは精神分析的だといっていて、自分もそう思う。
欲望年表というものの作成によってこだわりの分析ができると書いている。

この本自体からあきらかに浮いているメソッドの提案ということ

具体性は反感を受けやすいというが自分もこれには真正面からではないが、疑念を感じる
たしかに、欲望年表は一人でするにはいい方法だと思うしかし、常人には作中に書かれていたような綺麗な年表はつくれないと思う。

あまりにも綺麗すぎる。

俺視点ではグロテスクな歩みをして自分を見つめてやっとできあがるもんやと思ってる
ここは看過できない
精神分析を受けるのが遠回りのようで近道だと思う
心が正常に働きだすことによってここで提示されてるフローは周りだすのだと思う




以下てきとうにメモ

感動を超えたありようのゆさぶり

欲求、問題の発見→キーワード出し(夢分析的)

勉強は自己破壊

環境のノリから別のノリへの移動

別の用法に開かれている器官なき言語

ズラしていく会話というのはおれもよくやっていたような気がする

現実それ自体への到達はアイロニストの不可能な夢→三島由紀夫ぽい

享楽的こだわりとは自分のバカな部分
三島由紀夫でいうと政治活動?
村上春樹でいうパスタ?

自分の享楽的なバカさによって不可能の比較が中断され、何か行為が起こってしまう、
あなたに特異なダンスとして。
これもちょっと村上春樹ぽいな

こだわりの無意味さにおいて共鳴する
共鳴とは無意味の共感?=ウマが合う

享楽的という自分が現在たどり着いている結論をこの本はだいぶ強化してくれたように思える
自分はだいぶいいところまできているんだといった感覚

絵を勉強していて解剖学にいってそこから筋トレでそれが役にたってまた絵にかえってくるという
おれと全く同じルートで笑った

とにかくこの本はおおむね非常によかった
しかし、享楽的になるために欲望年表を書きましょうというのにはひっかかる
できることにはできたらいいができるか?といったことである