鶏むね肉と木綿豆腐が食べきれない。

「影の喪に服した一年」
この一年をひとことで表すのなら、これが一番的確な表現やと思う。気に入ったからあとでツイートしよう。

さっき鏡で顔を見たら肌が少し荒れていた。顔もむくんでいるような感覚だ。ここ数日の暴飲暴食のせいだろう。今日、明日は年末年始のためスーパーなどが営業していないから、普段通りには過ごせないけど落ち着いた生活をしたい。
基本的にはこういうハレの日みたいなのは苦手だな。はやくいつも通りの淡々とした生活に戻りたいと思う。しかし、それが続いてもストレスがたまるのだろう。わがままだ。

昼過ぎに起床したのだが晴れていてよかった。雨予報だったので、それが一週間前から気になっていた。
洗濯物もしないとな。
今日は予定通りに動こうと思う。(現在14時)
大きい銭湯に行き本を読みTwitterのスペースで予定している人と少し話して初詣に行き25時には寝る。
元旦は昼前に起きて散歩し、また銭湯に行き本を読む。そんな風に過ごしたい。
できたらヨガの太陽礼拝というポーズもしたい。太陽礼拝はヨガの超基本的な決められたポーズの一連のことだ。年末年始にはそれを108回するらしい。知らんけど。
YouTubeでヨガ系の動画がよくおすすめに上がってきて、色んな人が太陽礼拝108回のサムネで動画を作っている。それで知っただけだ。
中身も見ていないので実際のところはよく知らない。

連日の暴飲暴食のせいで胃腸が荒れている。今日は朝食はチョコレートとコーヒーだけだ。いつもは朝から元気にがっつり食べている。
この連日の暴飲暴食とは28日の謎中国人とのおでん屋での食事と29日の中学時代友人たちとの中華屋での食事のことだ。
前にブログで謎中国人との食事で少し家族のことを聞いてみると書いた。しかし実際は場の流れ的に聞けなかった。
中国スタイルの飲み方で、お互いがおちょこに日本酒を注いだら、飲むたびにいちいち乾杯をして一気に飲み干す。
ちびちび飲むのが俺は好きなのだが、そのスタイルのせいでかなりの飲酒量になった。
おかげで家族の話のような深い話を落ち着いてできるような感じにならなかった。
それはそれでいい思い出だ。

29日の中学時代友人たちとの食事はいつも通りの感じだった。

28日も29日もなんとおごられてしまった。こんなことをは初めてで驚いている。
謎中国人には中国式ということでおごられて、中学時代友人には幹事的なことをしてくれたからという理由だった。
約1万円浮いたのでめちゃくちゃに助かった。

この二日間を計算に入れなかったせいで冷蔵庫の鶏むね肉と木綿豆腐を食べきれなく捨てることになりそうだ。
胃腸の調子もあまりよくないので無理やり食べるのもしんどい。
食べ物を捨てるのに抵抗はあまりないが、普段は計算通り華麗に食材をうまく消化していくのに忘年会の二日間を計算に入れるのを忘れて捨ててしまうのが悔しい。

今日は母に関する夢を見た。
具体的な内容は忘れたけど夜中に何度も夢を見て起きてを繰り返し、起きるたびにまだこんな夢見るのかと嫌な気分になっていた。

父は一昨日から休みになっていてずっと家で昼から酒を飲み寝るというのを繰り返している。
ひたすらダルそうに見える。年末年始やハレの日の過ごし方が未だにわからずに酒を飲むことしか知らないんだと思うと少しかわいそうだ。

「ハレの日ではハレな気分でいないといけない」という物語が開いているのかなとも思う。もちろん俺自身の投影だ。
俺はそういった「大きな物語にこころを自分自身から主体的に捧げる」傾向にある。
それは生育児に俺の全てであった母(大きな物語/父なるもの)がなんの法則もなく気分が変わり、母に合わせなければ俺は生きることができなかったということから始まっていると思う。(いつもの論理)
ハレの日に気分が落ち込むのも自分が抑え込まれることが如実に出るからだと思う。(世の中には記念日うつという言葉がある)
この年末年始はハレの日に対していい距離感を今のところ作れていると思う。

30日は父と近所のスーパーに買い物に出かけた。
嫌な気分だったり、本当に認めたくないが少し良い気分もあったように思う。その気分を感じるとまた不快になったり本当に複雑だ。

先日、ブログのアクセス数が増えて、自分の記事が色んな人に読まれるかもしれないと怖くなり、それによってこころを乱したと書いた。
こころを乱したことは疑いようのない事実で、怖くなったというのは自分で考えた理由だ。
その時はそれしか思いつかなくて怖くなったと理由付けをしたが、のちのちに考えると他にも理由が考えられたのでそれを書いておく。
俺が実際にこころを乱し始めたのはブログ執筆時に書いている文章がなにかおかしくなっているような気がするということからだった。
前述したように俺は「大きな物語にこころを自分自身から主体的に捧げる」傾向にある。そして、そういうことへの抵抗感がとてつもなくある。
普段のブログでは、いわゆる自分自身に正直でのびのびとなんの矛盾も恐れずに書いている。
しかし、色んな人からの通知を目にして、なにかの「大きな物語」を感じて俺は自動的にこころを捧げてしまいその状態をブログ執筆時に気付き、とてつもなく不快な気持ちになったのかもしれない。
つまり、こころが乱れたのは色んな人に読まれる怖さではなく自分自身を失う不快感だったかもしれない。

多分、もう書いておきたいトピックは全部書けたと思う。また、書きたいことがあればいつも通り追記するつもりだ。
いつも読んでくださってるみなまさ、一年間ありがとうございました。こころから感謝しています。
また来年もよろしくお願いいたします。