なんとも言えない感じ。

最近、なんだか調子が悪い気がする。運動や食事、睡眠は乱れていない
体調が悪いとか、こころの不調だとかそういうことではないように思うけど、何かがよくないように思う。
頭の回転も鈍いように感じる。

ここのところTwitterを更新していない。
普段は毎日の食事のツイートや、適当に思ったことを書いていた。
しかし、ある時にふいに、この場にいたくないなと思い、更新するのをやめてみようと思った。
やめたときはこの場にいたくないとまでは思わなかったけど。今にしてみればそう思っていたように思う。
いつもしていたことをやめてしまったから、なんだか調子が狂っているのかもしれないと思うし、何かの調子が狂ったから更新するのをやめてしまったとも思える。

それに付随して思ったのはブログも少し変わってしまったと思う。
いつもならジムのことや一見どうでもよさげなことを書いていてそこから本題といった具合だった。
ああいう何気ない文章が自分にとって大事なことだったのかもしれない。
ここ最近も以前のようにジムのことや色んな小さな出来事で考えたりメモしたりすることはあるけど、それをわざわざ書くに値しないなと思い、書かないでいる。
なにか変な虫が歯車に挟まってしまったような。

「さようなら、ギャングたち」を読んだ。旅行中には「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。
それはなにか読書とは言いがたい感じだったのでノーカンとすると、だいぶ久しぶりに小説を読んだことになる。
小説を読むのは本当に自分にとっていいことだと思う。読んでる期間中は見応えのある夢も見る。

「さようなら、ギャングたち」を読み始める前はiPadYouTubeをよく見ていた。期間にして二週間ぐらい?
ずっと見ているうちにYouTubeのホーム画面が嫌になってきた。
アプリを開くとサムネイルが六個自動的に目に入って来る。それがしんどくて嫌なものも魅力的なものも自分のこころを動かすようなチャンネルを全てホームに出てこないように非表示にした。(チャンネルを非表示にするというボタンがある)
そのあとに更新してもまた色んなチャンネルのサムネイルが出てくるのでそれも非表示にするというのをずっと繰り返した。
何日間もしてもホーム画面に納得がいかなくてそもそもホーム画面が嫌いなんだと気付き見ないことにして、小説を読み始めた。

Twitterに居たり見たりするのが嫌になったり、YouTubeのホーム画面が嫌になったりするのは共通のこころの作用があると思う。

前回のブログでは「親ガチャ」問題に言及している動画に触れて怒っていた。
書いて一晩経つと後悔や不安や恥ずかしさがあった。
どうしてあんなことを書いてしまったんだろうと思ってしまった。
いつもなら、不快になるようなことを見聞きしてもなにも反応しないようにしている。しかし、実際には反応は溜まっていく。

俺は反応しないことに関しては上手くて、母親との関わりおいても全てを諦め、SNSでは2チャンネル時代から半年ROMれを地でいってきた。
そのことが相まってか感情の起伏はなくなった。同時並行的にあらゆる自明性を無くしていったように思う。閑話休題

もし、前回ようなブログを書かなかったどうなんだろう?
この疑問が自分の中に生れるが、その先の考えが全くない。
感情をため込むのも嫌だし、かといって書いたあとの何とも言えない恥ずかしさというか怖さというか、そういうのも体験したくない。

追記:「さようなら、ギャングたち」のあとがきは加藤典洋だった。
中盤が冗長だと書いていて、そういうことだったのかと思った。
読んでいる最中は中盤はなにかやらかしてるな~といった感じがしていた。ドキっとするときもあるけどインスタントな感じというか。のちのちに自分で見返すと恥ずかしくなりそうな文章だなと思った。
序盤は最高で終盤は良いけどモチーフが学生運動ぽくて古いからまぁまぁな感じ。
古臭くない作品なだけ学生運動ぽいのが出てくるとそれ自体の古さが際立つ。

追記:前回ブログを書いている時に、俺はなにか正義感のようなものを感じているというか、背負っているというか、、そういう要素が自分自身にあったように思う。
Twitterでゴシップに言及し一刀両断、正義の鉄槌みたいな感じだ。
前回の記事を書きながら俺はきっとそういったことにかなり気を付けていたと思うけどそれでもなにか滲み出ている気がする。
理想は俺自身として何も背負わずに書くことだが、それは怖い。

今日は酒を飲む。ワイン一本。
火曜日はジムが休みだからこの日まで我慢してきた。
ゆっくり飲もう。明日がしんどくならないように。

我慢ならん。高須幹也。「親ガチャ」という言葉。

※愚痴っぽい内容です。

www.youtube.com

www.youtube.com

動画の人は整形外科医の高須幹也だ。
「親ガチャ」という存在を認めつつ、「親ガチャ」という言葉を発する人たちへ「親ガチャ」という言葉を発すること自体の損を訴え、アドバイスによってより良い方向へ導きたいそうだ。

俺は「親ガチャ」を使っている人間はその損を少なからず自覚していると思う。なんならそういう言葉で親を蔑むことによって深く傷ついている人もいると思う。それでも使わなければ自分をたもてない人なんだと予想している。
高須幹也からしたら今一度、損得勘定をして使うのを控えたほうがいいということなんやろうな。
俺としては「親ガチャ」という言葉を使っている人間にそんな余裕はないと思っている。
無論、かっこいいかっこ悪いなんていう余裕はないだろう。(動画ではかっこいいかっこ悪いの価値観が強調されていた)

現実世界で「親ガチャ」はおろか「毒親」、「ヤングケアラー」の言葉も聞いたことがない。
見るのはネット上のみ、しかも匿名の文面でだ。使う人間は後ろめたく、損を知っているからだと思う。
そこからでも「親ガチャ」を使っている人間は「親ガチャ」という言葉がいかにグロテスクかと知っていると思う。
高須幹也も「親ガチャ」を見るのはネットだけだろう。そのネットですら言うのをやめた方がいいと言ってんいるんだと予測する。

提案、アドバイスによって人をいい方向に導きたそうだ。謝罪動画でもそこを強調していた。何を謝罪していたんだろう。
俺はそういった態度こそ不遜な恥知らずで、人を馬鹿にしていている謝罪すべきことだと思う。
俺は謝罪動画が出る前に一個目の動画から実はチェックしていてその時もブログを書こうか迷いつつ、ネガティブな感情の記事が連続しているように思い控えた。。。しかし、謝罪動画が出て我慢ならなくなった。

「親ガチャ」という言葉をわざわざ発する人間は産まれることをガチャという言葉に換喩し価値を貶めて救われようとしているんだと思う。

そして、わざわざそういう言葉を発することによって自分の価値が下がることは自覚していると思う。
それに傷つきつつも言わないとどうにもならない人がたくさんいるんだと思う。
傷つかなくとも、自分の価値が下がることこそがまたその人の救いになっていて積極的に使う人もいると思う。

これは正誤のために書いているんじゃない。俺はただ自分のために、「親ガチャ」で自分を蔑み、救われようとしている人たちに寄り添っていたいと思い、書かざる得ない。
そうでなければ俺は救われない。

追記:
加えて書いておくが、俺は「親ガチャ」ではないけど「毒親」を罪悪感で使えなくて苦しんでいた。
どういう言葉を当てはめるかは人それぞれやと思うけど、自分の中で当てはまるべき言葉が当てはまらない時は本当に苦しい。

俺は「親ガチャ」は使ったことが無いから想像に想像を重ねたことでしかないし、大袈裟かもしれないが「親ガチャ」という異常すぎる毒々しい言葉が使われるとき、その背後には生き死にがあると思う。
損得勘定やかっこいいかっこ悪いの価値基準に照らし合わして発言するかしないかが決まるものではないし、生き死にの境にいるときにそのような価値基準を出されてもムカつくだけだろう。
少なくとも、この動画を見て、損だからやめよう、かっこ悪いからやめようとなる人はいないんじゃないだろうか。
仮にいても、より一段階辛いところに行ってしまうだけのように思う。

追記::
最初はYouTubeのコメント欄に書こうかと思ったけど、コメントへのコメントが攻撃的なのが多くて怖くなってやめておいた。
俺のコメント自体も攻撃的になったと思うし、、、

追記:::
俺はどんな馬鹿気だ言動でもその人なりの妥当性があることなんだと思っている。もはや信仰に近いと思う。

旅行動画制作

旅行動画を作ろうと色々な動画編集テクニックを勉強していた。
勉強といってもただ、好きな動画のテロップやトランジション、効果音、BGMなどを作ったりダウンロードして、それをプリセット化するだけだ。
ある程度の”コピー”ができたので、それを元手に作ってみるがぜんぜん捗らない。もはや苦しい。

こういった流れの経験は過去にも何度も繰り返していて、これもその一回だ。
漫画制作でもそうだった。俺は人のテクニックを”コピー”する作業がすごい好きだ。その時は心は必要なく、ただ作業に没頭する。
漫画ではタッチ、コマワリ、ディフォルメ、細かく上げればキリはない。動画では先述した通りだ。

こういったコピーテクニックから何かを作ろうとしたら必ず失敗する。
そのテクニック自体に自分自身を持って行かれるからだ。その時に自分の感覚は全く働かない。強いていうなればその時に感じている何とも言えない堅苦しさが心の声だ。

動画制作自体が楽しかったから動画を作っていた。
たまにこういった変なことになる。文章もそうだ。

追記:
特に今作っている冒頭のOPが気に入っていない。
BGMもずんだもんを混ぜるのも完全にパクりでそれがなにか嫌なんだと思う。
うまく作れているが苦しい。
自分が侵襲されて苦しくなるやつだ。
俺は俺を殺せない。分裂か幼児しかないような感覚だ。去勢はできない。そんな感覚。

半額商品を買うのにハマってる。

最近、連日バイト帰りにドラッグストアで半額商品を買っている。
確実に無駄に摂取カロリーが増えていると思うので良くない習慣だと思う。

昨日のブログはやっぱりうまく書けてないな。内容、、というか自分自身の幼稚さが露わになっているように思えて恥ずかしい。
文章や構成も間延びしている感じがする。

明日は日中に結婚式新郎友達と嫁さんセットで会うことになっている。
時間は一時間半程度。
結婚式のときの話題がほとんどになるだろう。つい先ほどまでがっつり忘れていて、待ち合わせ場所の確認ラインが来て思い出した。
危ない危ない。
俺にしたらかなり珍しいことだ。

YouTubeを適当に見ていたら、ラップ関係のチャンネルがおススメに出てきた。
タイトルに「ギャング」の文字があったので、未だにぜんぜん読み進めれていないものの「さようなら、ギャングたち」が好きなので見てみた。
ラップとギャングは密接に関係しているらしい。というか、ギャングというのは未だに存在しているらしい。
古い映画やアニメの世界だけだと思っていた。
ギャングには男らしさや悪いといったイメージがあり、ラッパーはドラッグ、セックス、暴力のことを歌詞することが多いそうだ。
カニエウェストというのが有名らしくて、日本のおばあちゃんでも一回は聞いたことがあるらしい。俺は知らなかった。
聞いてみたが聞き流すのちょうどよくて、ショパンも飽きてきたのでカニエウェストにしようかと思っている。

社会不適合とまでは自称しないがランダムに集まった人たちと仕事するのは今後も苦手だろう。

愚痴っぽいというか、ちょっとネガティブな気持ちが出てる記事です。

  • ついにラノベ風タイトルにまで手を付けだした。

昨日、今日とバイト先で揉めたことと、それから考え、感じたことを書こうと思う。
ちなみに、ちょっと前にも揉めて鬱っぽくなったと書いたが、今回はいまのところ、あまり鬱っぽくはなっていない。
前回はかなり高圧的で、今回はまだ少しマシで会話になったからだ。

  • 両日とも揉めたのは同じ人で昨日の話から書く。

その日は睡眠不足気味で、今にしても思うと最初から少しイライラしていたように思う。

主任の報告不足で仕事が滞り、さらにイライラがつのった。
その報告不足は明らかにミスだったので指摘しようかと思ったができなかった。
もう半年前ぐらいか、忘れてしまったけど異動になった俺が好きだった人ならノータイムで指摘していただろうな、と商品整理しながら悶々と考えてしまった。
それでまた自分自身にイライラをためてしまったように思う。

単純に態度の悪い若い女の客も来てイライラした。(イライラと言う言葉を使いすぎてて違う表現もしたいもんやがイライラってイライラ以外に書きようがないよね。ムカつくなら対象を感じさせるし、それは自分自身の状況に言葉のベクトルが行ってないからなんか違うねんな)

  • そして、ここからが本番。

一か月前に購入のスーツセットが不良品だったと返品しにお客が来た。
実際にその商品は目立った毛羽立ちがあり、不良品だった。俺のところは返品はルール上、一週間以内でしか承っていない。
しかし、ごねればいくらでも返品できる。不良品ならば店側責任なので、事実上無期限だ。

こういう客に限って返品に手馴れていそうでムカつく。それにスーツセットなんて明らかに必要買いしているものだろう。
それを一か月も使わないなんて違和感がある、使用後に商品タグを付けなおして傷を付けて返品している可能性もぜんぜん考えらる。

しかしだ、客を疑うなんてことはできない。しかも、表面上では店側が不良品を売ってしまった加害者側だ。
謝って返品を承るしかない。

その際に(実はここからが本番)有料の袋代も個人の判断で返金した。
その後、不良返品について報告したときに、袋代は返金してはならないと両日にわたって揉めた人に(Xさんとする)注意された。
俺は不良返品であっても袋代は頂くルールを忘れていて返金してしまい、ミスをした。そこまではよかった。俺は平謝りしていたと思う。
Xさんはそこからさらに返金してはならない理由を説きだした。つまりはそのルールが敷かれている理由ということだ。

Xさん言っていることにあまりにもまともな理屈がなかったので明確な記憶に残っていないのだが、
袋はそもそもエコバッグを持っていたら買う必要はない、それを持ってきてないがため、袋を買ったので、袋の購入はお客さん責任。さらに、そもそも、商品とは別個で買ったのだから、商品に伴って袋の返品返金はできない。
その上、袋は使った時点でもうシワがつきボロボロで返品されても再利用できないので、返品返金はできないとのことだった。

理屈の話になったので、俺は俺がその場で返品返金をしてしまった理屈を話した。
この商品が本当に不良品だったのかは怪しいし、一か月後に返品にくるのもかなりムカつくが、少なくとも表面上では不良品を売ってしまったのは店側で責任を取らなければならない。
実際に店は不良品の場合、その責任を取るために返品期限一週間ルールの無視や、購入時のカードポイントも抜かないルールがある。
お客さんが袋を買ったのは店の商品が良品であるという前提のもとで買っていて、不良品とわかっていたならば、服も買っておらず自ずと袋も買っていないだろう。
なので、袋の返品返金も承るのが筋だと思い、返品返金をしましたと、、、

つまり、Xさんの言う理屈の商品と袋は別個だということの否定と、ついでにエコバッグは義務ではないから今回の話とは関係ないと思うとも話したと思う。

Xさんは俺の理屈の否定やその他もろもろを話していた。詳細は忘れてしまった。
最終的にはあなたの言っている理屈もわかると言ってくれた。しかし、ルールはルールだからそこは良くないと言われた。
俺もそれは終始、思っていて後ろめたさがあったがあまりにめちゃくちゃな理屈を言われたのでついつい言い返してしまい、その後はどんどんと通らない理屈が出てきたので否定が止まらなくなってしまっていた。

話の最後は大団円的だった。
俺はルールを間違えたから謝る。Xさんの理屈は通っている。俺の言っていることもわからなくもない。という雰囲気だった。
俺もなんだか満足していた。社会でそこまで話を聞いてくれたのは始めてだったかのように思う。(親にすらまともに話を聞いてもらったことがないし)
Xさんはなんていい人なんだと思っていた。
しかし、今になって思うと、それでもXさんの理屈は通っていなかったし、どう考えても無理があったと思ってしまう。
大団円的で居れればそれは幸せだが、どうしてもそのひっかかりを無視できない。もはや、無視してはならないとすら思っているところがあるように感じる。

俺が今後の付き合いを加味して、徹底追及しなかった(できなかった)だけだ。
(重ね重ね基本的にルールを間違えた俺が悪く、追及されるのはむしろの俺のほうだ。話の中核ではない、仕事に関係ない上辺の理屈を無駄に突っついて、相手の人はそれを聞いてくれた。”社会”人としては俺は愚かで、相手の人はすごい優しいのだと思う。)

  • もう長いが二件目。

よくある判断はしてないものの、責任は押し付けられるという話だ。

忙しい時間帯で、レジ打ち係と服を畳む係の二人態勢でのときのことだった。
俺はレジ打ちで服を畳む人は熟練パートの人だった。
タグでは二割引きのところ、レジが自動的に三割引にするように登録された商品があった。それはXさんのところ商品だった。
おれは判断できないので隣の熟練パートの人に聞いたら三割引きでいこうとのことだった。
その後、そのレシートをもう一枚出しておいて、Xさんに確認をしに行ったら二割引きにしてほしいとのことだった。
もしわからなかったら売り場に来て私を探して確認してほしいとのことだった。
しかし、俺が判断したわけじゃない。そのことを説明すると同時に熟練パートの人も話に入ってきてウヤムヤになった。

さらに、普段ならば、自動的に割り引かれるように登録されてる商品ならば、その登録を優先している。
今回はセールの特別な時期で配布されている紙に小さく、タグの表記を最優先してくださいと書いてあった。
その紙自体、見るものではないのは共通認識としてあるはずなので、もはや騙しに近いレベル、少なくとも確実に混乱のもとだ。

その後、注意書きを書いてレジに貼ろうとしていたが途中で止めて、今回のトラブルのもとになった商品は少ないからそっちほうを訂正するといって、一時間後、訂正されていなかった。

  • 長くなってきて疲れた。俺が一息で書けるのは三千文字ぐらいやな。考えたこと気付いたことを最後に書く。
  1. ずっと前に主任に詰めたときはすごい怖かった。

もう人間関係がどうなってもいいとか、バイトを辞めることになってもいいとか、まさしく一事が万事の世界観。俺がよく言う生死をかけたような意気込みだった。
その時は思いつめて準備して言って、今回はその場の勢いで言ったからちょっと違うかもしれないが、
そこまで生死をかけるような怖い思いはしなかったように思う。
それは「人は話を聞いてくれる」だとか、「関係は続く」みたいなことへの信頼が自分の中で育ち始めていると考えられることだと思った。
実際、相手の理屈は間違えているものの、本当によく話を聞いてくれたと思う。今でも嬉しくなるし、同時に意外と世の中の人は話を聞いてくれるものなのかもしれない。

  1. 女の人への怒りやムカつきなどの負の感情が自然じゃない。

単純に態度の悪い若い女の客も来てイライラした。(イライラと言う言葉を使いすぎてて違う表現もしたいもんやがイライラってイライラ以外に書きようがないよね。ムカつくなら対象を感じさせるし、それは自分自身の状況に言葉のベクトルが行ってないからなんか違うねんな)

この話のときに思ったんやけど、なにかこう、書くのが難しいけど、イライラするのがスムーズじゃないように思う。
女の人を基本、いい人と思うように努めてるというか、、、
それに、女の人に徹底的に攻撃的になるのが難しいようにも思う、、、今回のXさんの二件も徹底論破みたいなことはしなかった。相手のおかしいところはウヤムヤのままにしておいた。
というか、徹底論破みたいなことができない。(もちろんしないほうがいいが)
これを言ったら完全に向こうが詰むみたいなことを言うことができない。それは吃音と同じようなメカニズムのように思う。(考えれば男の人相手でも同じだな。)

  1. 俺は理不尽なルールを押し付けらるのは大丈夫だが、納得できない理屈を飲み込むことができない。

もし、飲み込んでしまったら異常にイライラしてしまう。
理不尽なことは理不尽だからこそ我慢して受け容れられる。しかし、そこに自分が間違えてるいると思う理屈での妥当性も加味されると受け容れられない。
その上、俺は些細なことでもいろいろと考えてしまう。なので、俺は「社会不適合とまでは自称しないがランダムに集まった人たちと仕事するのは今後も苦手だろう」と思った。


けっこう考えても、理屈上ではおれは間違えていないように思うのだが、
俺が間違えてるんやろうか。書いていて不安になる。

追記:
ある記憶が思い出された。小3ぐらいやったと思う。
ちょび髭先生という現在でいうところの特別支援学級の先生がいた。名前から察せられるようにみんなに人気の先生だった。
その先生と話しているときに「お前はほんまに謝らへんな~。まず第一にごめんなさいやろ。」と言われた。
その時に自分はよく似たようなことを色んな人に言われているなと気付いたように思う。些細なことだが、それで世界が更新されたように遡及的に今になって思う。
「言い訳をしてはならない」と思うようになった。正しくてもまずは謝らなければならない。それができないことは恥ずかしいことだと思うようになった気がする。
もちろん、「まず第一にごめんなさい」は重要な処世術だと思う。

そして、これは度々書いているが、母との会話では自分が言い訳をすると、大声で怒鳴られたり、パニックを起されたり、泣かれたり、、、さらに遡り幼少の時には家を出されたり、ご飯が出なかったり、体力の限界まで長時間、ネガティブな感情をぶつけられたりで自分が正しいと思っていることが言えなかった。

そういった影響が、俺の自分自身が正しいと思ってることが言えない「正論吃音」みたいなことになっているのだと思う。


今回のバイト先でのエピソードは他にもっと重要なことが隠れている感じがする。なにか書き忘れているように思う。

ドバイ、エジプト旅行で友人にカウンセリングに通ってることを告白した話。

  • ブログに書いていた通り、旅行中にドバイ勤務友人(M)にカウンセリングに通っていることや、自分のことについて話すことができた。

帰ってきて二週間が経ち、自分のなかでいろいろな出来事の評価が落ち着いてきたので、書き残しておこうと思う。
この記事で扱うことと無関係にいくつかの考えが旅行中に浮かんだがそれはブログに書くほどのことなのか、メモに残しておくだけのことなのか迷い中。
旅行自体、非常にユニークで面白いものだったので、旅行記のようなものを動画で楽しい感じに作りたいと思う。わかりやすく楽しいのは動画で、よくわからないこころのことはブログでというのが自分にとっていいように思う。

  • Mに自分の話をし始める前に、俺は、入念に準備をしていた。

それはあまり深くまで話を進めないということだ。俺は自分自身の話がかなり深い段階までいっていると自覚し、一挙に人に伝わることはなく、何度かに渡って話すべきだと確認していた。
その自覚により、かなり浅い段階で話を区切る算段ができて、難しい話をどう伝えればいいかという苦しみはなくなり楽になった。

なんとか二人になれる時間を作り、準備していた話をした。
内容は、
『俺には元カノがいてその人から家族の話を聞かれた。俺は応えることができなくて自分自身になにか違和感を感じた。家族関係に重大なトラウマがあることがなんとなか察せられて、その時期に村上春樹やカウンセリング関係の本にハマっていたのも相まり、近所のカウセリングルームに通うようになっている。』
ということだ。
そこからさらにどういった内容を話しているだとか、家族関係の具体的なトラウマには踏み込まないように気を付けていた。
そこまで行けばお互いにキャパオーバーになると思っていた。

話を終えるとMからは解釈や質問がかえってきた。
そもそも、Mは親族や友人、彼女からそういった相談に慣れていてるのはわかっていた。
誠心誠意、耳を傾けて、親身になってくれていると感じると同時に、Mの中の自動的な処理システムの流れに入って行くのを感じた。
Mの中の理解できるおさまりどころにおさめられていく感覚だ。

Mの解釈や質問は分類するためのことだった。
俺の理解の精度を高めようと、二者択一の質問が連なっていった。(具体的な質問内容はどうしても思い出せない。後述するがこのときは質問内容よりも会話の方向性に注意が向いていた。)
Mの算段ではその先に固定された地点がありそこからビルドアップすれば解決するということだったんだと思う。
なんとなく、肌でそのような雰囲気を感じつつ、俺はMの二者択一の質問の流れに乗って行った。
おれの思想からすれば真逆の方向に行っているのは明白だったが仕方のないことだと思った。
俺の話は矛盾をはらんだ非常に不安定な状態だから、それをなんとかして整理し安定させたいのだと思う。

カウンセリングの場ではないということも強く自覚し注意していた。
Mの態度や表情には真摯があった。

Mの二者択一の質問が重なりだして、おれが”理解”されだしているように思った。
そのあたりで危ないと思い、自分自身の矛盾性をアピールした。

その時の会話のトピックは親についての想いや親孝行についてだった。
俺は親とは絶縁したいが親を求めている気持ちもあると明確な矛盾を示した。

Mは終始、俺の話は単純ではないのだろうとという枕詞のもと、単純化を図っていた。
そこには俺がこれ以上深みを歩を進めないように、防衛が働いていたのかもしれない。
解釈的な網目を張って理論上での話の維持、現実的な理解、対応策への角度ばかりだったと思う。

実際、会話の半分はMが喋っていた。

俺の話は本当の話だ。
それはM自身の受け容れ難い本当のことも誘発してしまうのだと思う。
この誘発による事故を俺は恐れていた。
実際としては安全に解釈され”理解”されたように思う。

Mは非常に親を大事にしていて、友達も大事にしている。
親は本能的にやはり大事なものという認識で、自分みたいな人間とずっと友達でいてくれている友人へは感謝の念が強いみたいだ。
俺はMとは根底に似たようなことがあると思っている。だからこそ話したわけだが、今回はそこまでいけなかったように思う。
俺は準備もタイミングもばっちりだが、相手からしたら自分のこころへの準備もタイミングも全くできてないわけで仕方のないことだと思う。Mは現実に生きている。

  • Mへの告白には深い感動はなかった。

S君への告白や結婚式の一件ではカウンセリングで報告しているときによくわからないタイミングで、制御不能の涙が溢れていた。
それは自分自身が他人に受け容れられたという実感からの歓喜の涙のようなものだったと思う。
今回のは、俺としても自分自身を抑えつけて伝わりやすいことを心がけていたし、Mの方としても、理解しやすいように現実的な処理を施していた。
お互いにこなしたような感じになったと思う。

カウンセリングと現実の違いをよく思い知らされる。
カウンセリングではカウンセラーが俺が危険なところまで歩もうとするのを見守ってくれている。俺は入念に準備をしてじっくりと危険なところまで歩を進める。
現実では、危なそうな穴は全て現実的な網の目によって瞬時に補修される。出来合いの理解の範疇に収まる。
それはお互いに安全なことだ。絶対に腐らない添加物たっぷりにマクドナルドのバーガーのように。
おいしくて、安くて、早くて、安全。

この会話は第一回目なんだと強く意識していた。これからも関係は続く。
そのことを会話の最後にも伝えておいた。
しかし、今となっては俺にはさらに会話をこちらからもちかけようという欲求はない。
俺はMにボールを投げたという感覚だ。返球待ち。
これ以上俺から何かを言っても余計に伝わないと思う。Mが生活をしていくうちで俺の話が熟成したり、なにかが起きたときにボールは何かの形をもっていて返ってくると思う。
ずっと返ってこないこともあると思う。それはそれでいいと思う。

当初の予定ではM、結婚式の新郎、弟と話していく予定だったが今はあまりそのような気持ちにはなれない。
誰に話してもこのように現実的な網に絡めとられて肩透かしに合うだけだろうと思ってしまう。
同時に、ひとまず相手にボールを投げるということだけでもしておくべきだとも思うが、、
しかし、弟だけは特別だ。弟にはやはり話すべきだと思う。
そしてこの流れの先にはどう考えても両親がいる。

最後はきっと両親に話すことになるのだと思う。
両親に話すときには、俺は話したい事や感情を思いのままに話すのが、なにより自分にとって意義がある思う。
そうして今まで甘えられなかったことによる傷が、回復していくんだと思う。
しかし、それができるイメージはない。
おれが話すとしたら両親を傷つけないように、慎重に、パニックならないようケアしつつ、言葉を選んでできるだけ冷静に話すと思う。
それだけでも価値があると思うが、なんだか虚しいもんだ。

  • カウンセリングと比べて旅行中は非常に意識的な世界にいたと思う。

言い換えれば無意識の世界の怖いところに行かないようにみんなで共犯的に意識世界上で楽しんでいるということだ。
ちょっと悪いように書いているがそれは普通だということだと思う。現実的な旅行だったと言ってもいいかもしれない。
三人とも現実的だった。現実的な、嘘の、寂しくない世界。
そこに俺は疲れたと思う。少しは無意識の世界に潜りたかった。虚構的な本当の寂しい世界に。

思えば、旅行の最終日に近くにそれを示唆するような夢を見ていた。
俺がベッドから出ようとすると、旅行同行者の二人が出れないように俺を抑えつける。俺はとても苦しむ。目が覚めるものの、実際にはまだ夢の中で、同様のことが何度も、繰り返される。
実際に起きたときに、夢の中で夢が繰り返していたことがわかる。といったものだ。苦痛度合いが高く、人の家のベッドで見ていいようなレベルの悪夢ではなかった。その後は自分が寝ている最中、うなっているかもしれないと思い怖くなり、ソファで寝た。
俺の人生は今までずっと現実的な嘘だらけだった。ずっと旅行中の時のような感じで生きていたとすると、よくそれで耐えていたなと思う。

逆にカウンセリングは本当だらけだ。それは現実離れしたことで、理路整然としていないことだ。
そして誰とも共感することはできない。純粋な本当なことというのは孤独だ。

旅行から二日後のカウセリングルームは居心地がよかった。ここでは本当になれる。

本当なことばかりでも、それはそれで、しんどい。
カウンセリングの日々が続くとき、夢が続くときは本当だらけで、しんどくなっていたように思う。
そういうときに巨大中国人と、現実的な、嘘の、寂しくない会話をするのはすごい癒しだったように思う。

嘘と書くのはちょっととげとげしいかもしれないが、あえてそう書いてみている。
人と繋がるためには言語を使わないといけない。お互いに言葉を使わなくとも、言語構造に生きる人間は、表情や仕草も言語構造を通して受け容れられる。嘘を経由しない限り人と繋がることは無理だし、嘘が人を繋いでくれている。

現実的な嘘。虚構的な本当。
俺の目指すところは「現実的な嘘」の世界で「虚構的な本当」を守り切り、ひそかに混ぜることだ。
書きながらにして思うが、村上春樹の現実世界の話とファンタジー世界の話を平行して進めるのも、「伝わらない本当の話(ファンタジー世界)」と「伝わる嘘の話(現実世界の話)」とを織り交ぜていたんだと思う。

本当と嘘が混じることが大切だと思う。
俺の人生のほとんどが嘘だった。本当になれる場所がなかった。
カウンセリングでは本当しかない。現実でも嘘を毛嫌いするようになっていた。
しかし、本当だけだと人は孤独になってしまう。
自分の本当のことを大切に守ったり、嘘に混ぜ込むのが処世術なのだと思う。

最後に、旅行先で話すというのはいいことだったと思う。(相手は生活の場だが)
しかし、ドバイという場所は少し深い話をするのには適さなかったのかもしれない。なんとなくそんなことも思った。

「正直、嫌だな」という気持ちが遅れてくる。

四月ごろに巨大中国人含めてジムの人と居酒屋に行くことになった。
提案者はザ大阪と呼称とする。
年齢は50歳前後、仕事は車関係の会社を経営している。非常に社交的でジムのスタッフや利用者と定期的に食事に行っているそうだ。
見た目は角刈りでドギツいサングラス、ボストンバッグをいつも手にしていて、「おぱんちゅうさぎ」のキーホルダーをしている。定期的に日焼けマシンを使っていて肌が黒く、香水の匂いがきつい。
ラインのプロフィールには「人生一回きりやから楽しみまくる!」や「みんなをハッピーに!」にと書いてある。
そして、名刺には心理系の資格が二つ並んでいた。(ほんまかいな)

俺はザ大阪とは距離を取っていたいのだが巨大中国人が仲良くしていて食事を断れなかった。

ザ大阪とはジム利用時間が同じで、相手が社交的なので会えば一言二言話していた。
食事まで行くことになったのは多分、俺がドバイに旅行に行くことを知ったからだと思う。
巨大中国人含めて三人でジムで話しているときにそのことを話したのだが、ドバイのことを話した瞬間に目の色が変わっていた。
おそらく、俺を金持ち、もしくは金持ちと繋がりがあるのだと思っていると思う。どれも途方もない見当違いだが、、

実際に嫌なことをされたわけではない。ただ、見た目やキャラクターではなから毛嫌いしているだけだ。
それはそれで別にいいと思っている。
こんな人を嫌だと思っていることを自覚するのにけっこう時間がかかったことがあんまりよくないなと思う。
仲良くなろうというか「仲良くならなければならない」だとか「嫌われたくない」みたいな気持ちが働いていたと思う。
食事に誘われてから嫌いと自覚できるまでの一週間ぐらいは感情面にすごい抑圧がかかっていて分裂的だったと思う。
まだ一週間で嫌いだと自覚できてよかった。

食事の際はお酒はあまり飲まないように気を付けよう。