アザラシのスポンジ。

今日も図書館、バイト、ジムの生活だった。
どこに行ってもけっこう充実している感じがする。ジムでもスタッフの人と仲良く話せていて後ろめたさも緊張もないしすごいらくだ。
バイト先ではたまに来る人種だがハイブランドこってりコーデのネイル長めのババアにびびってしまった。
その人が会計のあと少し時間が経ってから領収書を要求してきて、新しいレジのため、自分のIDを切ったあとに再度データを呼び出して領収書を出す方法がわからなかった。
普通のお客さんなら焦らないが、高圧的なすぐにイライラしそうな人には焦ってしまう。そういうところを直したい。

台所でアザラシのスポンジを使っている。バイト先のおばちゃんから香典返しかなにかでもらったものだ。
たぶん一個百円とかのスポンジだと思う。
スポンジなんて最低限でいいから五個百円とかの使うのがもっぱらだと思うが、そこでちょっとお金を足してかわいいものにするのが女子的だ。
女性と暮らしたらそういうふうなことが多いのかなと想像する。日常にかわいいものがある生活。
暮らしの中に女性性があってそれにリズムを崩されるみたいなことに憧れる。

最近は「ロンググッドバイ」を読んでいる。ミステリでちょっとギャツビーぽいのかな?って感じ。ギャツビーよりギャツビーみはわかりやすそう。
アフォリズム(決め台詞的なの)が三島由紀夫の小説の三分の一ぐらいあって、二章に一回ぐらいは村上春樹がちらちら見え隠れする。

好きだったアフォリズム
「独房は清潔で消毒液の匂いなんぞはしない。模範囚たちが丁寧な仕事をしているのだ。模範囚の供給は常に行き届いてる。」
書いてみて思ったけどアフォリズムと言われるものはもっと直接的だったり説教的か。
あと「~のだ、~なのだ」ってなんかあまり好きじゃないな。


父親はベッドでずっとshorts動画を見ている。
ハイボールを飲むか、パチンコするか、shorts動画を見るかだ。
洗濯物を干せるベランダは父親の寝室にあるため、それでよくshorts動画をベッドで見ている父親を見ることになる。
あからさまにずる休みしていて、嘘をついていて、自堕落な生活をしているのを俺に見られて恥ずかしくないのかな?
俺はそれを見ないといけないという自分自身の境遇が恥ずかしい。
「恥ずかしくないの?」
いつかは質問できるといいな。死んだらその応えも永遠になくなってしまう。


モーニング娘。」の最新世代に興味が持てない。
ひとつに俺が今に生きる新しいものが苦手というのがあると思う。音楽もかなり遅れてやっと聞けるようになる。もうすでに「モーニング娘。」を卒業していて「モーニング娘。」としては確定(ピリオド)しているほうが安心して見れるということだ。
もうひとつに「モーニング娘。」に垢が溜まっているということだ。何かが足りていないのではなく、なにもかもがやや満ちているように感じる。
アンナ・カレーニナ」では幸福は典型的で不幸は個性的だと書かれているらしい。
2017年ぐらいまでの「モーニング娘。」は不完全で危険でどこか不幸さがあったかのように思う。当時ぜんぜん見てへんねんけどね。

アンナ・カレーニナ」は1878年の作品らしい。やっと150年もったぐらいや。200年はもつかもしれへんけど300年はきついやろな。400年は確定で無理やと思う。(「戦争と平和」ならワンチャン?)
そういうのを具体的に考えていったら面白いな。「アンナ・カレーニナ」にも最後の読者となる人があり得る。

これのサムネの眼光というか感じがアニメの「アイドル」の感じにめっちゃ似てへん?
オープニングしか見たことないねんけど、、、
www.youtube.com


追記:
ドン・キホーテ」は1605年らしい。「好色一代男」は1682年らしい。
なんでそんなに生き残ってるんや?