「元ひきこもり」が100人規模の結婚式で「乾杯スピーチ」をしたということ。(あとがき)

どんだけ擦るねん。
まだまだ書きたりないのだがどうしても、どうしても、書きたいことがあるので「あとがき」として書こうと思う。

前回の記事において
peppeq.hatenablog.com
最後のブロックでこのようなことを書いていた。(既読者読み飛ばし推奨)

この空気だけでは、この「システム」だけではダメだと思った。
そう、「システム」だ。
先程、「それそれー気持ち気持ちー」というのに「大きな物語言葉」と命名すると書いたが、彼らは、いや僕たちは二次会のとき暖かな「大きな物語」の中にいた。
同窓の友、同じ部活動、友の結婚の祝福、、、そして運動部的な語調や言葉、、、
僕たちは全員が「システム」を担いし者だった。
俺にとって「システム」の”最たること”がS先輩だった。
俺が結婚式に行く前から漠然と恐れていた正体は「システム」だ。「システム」の権化としてのS先輩を恐れていた。
「システム」には受け容れられない俺の様々な白けるようなことは全て笑いに変えられた。
巨大な壁に投げつけられた卵のように、、、

自分自身が殻も中身もわからない状態になり、壁と一つになっていた。。。
ようでもあるし、持ちこたえていたような気もする。

実は最初に書いた時はこの続きがあった。以下、削除時に残しておいたものを貼る。

この「システム」は多分大事だと思う。でもそれだけでもダメだと思う。
壁であり卵であるようなことは狙ってできることでもないと思う。
人それぞれに偏りがあり苦楽があり、、、苦しみばかりな人もいるのだろうと想像する。

おれは自分自身の偏りを変えられると思っていない。
ただ苦しみは緩和できると思っている。自分が自分自身を少し受け入れることができたら付随して様々現実的な苦しみが減ってきたように思うし、自分の色んな話しがたいコンプレックスを話せる人もできてきた。
この話せる人との関係は一般にただの友人関係なのだが、ここでは文脈に合わせて、「お手製のシステム」とする。

「孤独を受け容れること」と「お手製のシステム」は車輪の関係なように思う。
孤独を受け容れれば入れるほど、お手製のシステムは育つし、お手製のシステムが育つほど孤独を受け容れる勇気も湧いてくるように思う。

書いたときはなかなか綺麗にまとまったなと思った。しかししばらく置いているとむずむずしてきた。
まず、「お手製のシステム」という言葉のうさん臭さだ。前述のとおりただの友人関係の言い換えだ。
そもそも「システム」自体が「大きな物語」を言い換えただけのものなのでなにを言ってんじゃいって感じだが、、
肌感覚として「システム」までは気持ちよかった「お手製のシステム」はなんかやりすぎだと感じた。

そして、綺麗にまとまりすぎててそれも何か嫌だった。非常にうさん臭い一般化だ。
なにより、自分のすごい体験が一気にしょぼくなるような感じがした。何か大事なものがごっそり抜け落ちるような感覚があった。

ここからは本当に恥さらしになるのだろうと想像するが思ってしまうので書いてしまう。
この「うさん臭い」一般化だったり「しょぼくなる」一般化は宇野常寛の「砂漠の異人」や東浩紀の「観光客の哲学」を読んだときに同じように感じた。
たくさんの学があったり、有名だったり、尊敬している人が評価しているのでどうしても歯切れが悪くなってしまう。
自分が間違えているんだろうと思ってしまう。それに挙げた本に論理的な文章で批評する力がおれにはない。
「砂漠の異人」は問題提起、問題に対する色んな人の対応策の評価、提案、みたいな感じだったが、「提案」の段階になると本当によくわからなかった。たしか、そりゃそうだろ、それができりゃ苦労はしねえよみたいなことを思った記憶がある。
「観光客の哲学」でも中盤まで怒涛の面白さだったのに後半の具体的な提案段階で一気に失速したと思った。

俺は自分の大事にしている出来事をなにか小さい一般化に落とし込みたくないと思い、「お手製のシステム」の文章は切ることにした。
こういう一般化は気持ちよく癖でやりがちだし、ここに自省として書いておこうと思った。
決して、宇野さんへのうっ憤を晴らそうと思ったわけではない笑
以上!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
とりあえず、結婚式編は終了だ。この執筆をもってしてやっと本当の区切りができたように思う。
ここまで読んでくれた方々、ありがとうございます<(_ _)>