「資本主義、科学イデオロギー的な同調圧力のうざさ」と「母性と安全圏」

  • 今日、

資本主義、科学イデオロギーに全乗っかりで倫理(生き方)を考えてない本がおれは嫌いなんだと思う
少なくとも読んでいて身が引き裂かれるよな感覚になる

というツイートをした。それについて考えたを書く。

倫理=生き方
というのは疾風怒濤精神分析入門からだ。ただ、倫理は道徳と勘違いしやすい。
倫理という言葉は使わなければよかった。おれもよくわかってないのに、ちょっとかっこつけてしまった。

倫理=生き方=自分がなにを善しとするか、とする

自分にとって「なにが善しなのか」がほのかに見えたとき、察せられたとき、
インプットされた資本主義、科学イデオロギーにすぐに修正されているように思う。
それが嫌だ。

そしてなにより、なにか優しげに「苦しみを取り除きますよ」みたいな感じで
表面的な苦しみを取り除き、資本主義、科学イデオロギーに適するように修正しようとする本なりなんなりがムカつく。
真面目にこのような修正に取り組むと一層分ややこしくなると思う。



  • 安心感は大切だ。

しかし、このごろのカウンセリングでおれは安心感を感じるところがないというのが明白になってきている。
他の点ではなにか自然と焦点が移動しているのに「安心感」は初期からずっと無くて困っているとなっている。
無いからといってそれを無価値なようにふるまって誤魔化すわけにはいかない。
「安心感」は絶対大切だ。おれはそれを欲している。
しかし「安心感」を得ようとしたときおれは母性に飲み込まれる。
俺は母性的安心感を与えてくれる人を満足させるための存在になる。


。。。。。。


書いてて思ったけど
恐らく多くの人はこの母との結託で出来上がった安全圏が心地よくてそこからなかなか抜け出せないんだ。
ただ、おれは母との結託もまた神経戦だった。一歩間違えれば捨てられる恐怖にあった。(とする)
だから、俺は抜け出せてしまったんだ。

すごい発見をしてしまった気がする。

1、母との関係で安心感を感じてそこから抜け出せない人
2、母との関係で安心感と不安の両方があって不安が勝って抜け出した人

両方とも母性社会の住人やけど、なんか違うな。

「そもそもが大いなる安心感があるという前提」
宮崎駿庵野秀明もそうやけどおれにはそれが無いと思う。

いや、無いはず無いと思うが、、、しかし無いとしか思えない、、

なにか論が空中へ行ったがもう寝る。


追記:

1、母との関係で安心感を感じてそこから抜け出せない人
↑エディプスコンプレックスを未通過

2、母との関係で安心感と不安の両方があって不安が勝って抜け出した人
↑実際の母からは抜け出したが、母性からは抜け出せていない(抜け出すとかないと思うが)
まずはしっかりとした安心感を感じてからさらにそこからエディプスコンプレックスを通過しなければならない。

まぁ思いついたから書いたけど、これだけは絶対違うなと思う笑
エディプスコンプレックス以外の道を進むのが我が人生(特異性)だ。そんな気がする。

エディプスコンプレックスなき人生を引き受ける。

引き受けるという表現が好きだ。