ねじまき鳥クロニクル 村上春樹 について考えてみる ネタバレ注意

これは乱文だし、そもそもYouTubeでなにをしゃべるかを決めるために書くものであって
人に読んでもらうと思いながら書いていないので
好奇心が旺盛な方がもしこれを読もうとしているのならそこだけはひとつご注意を

www.youtube.com

最近これめっちゃリピートしてる


ねじまき鳥クロニクルについて考えてみる、まずはメモを残してるから適当にコピペしていく

各年代
世代
年代記
神話

生きて帰りし物語

な、なるほど~
クロニクルがまず年代記という意味ですね
クレタマルタが物語から去りナツメグシナモンが代理バッターになるけど、そのときに主人公はクレタマルタの存在を一世代前だと感じるという

これはねじまき鳥クロニクルの中で物語が二周(三周)しているのではという仮説
クレタマルタ世代ではクレタマルタが救済(?)されナツメグシナモン世代では主人公が救済された。

通しでこの年代記を見ているのはねじまき鳥



・かっこに三周としたのは戦争中の間宮中尉の世代の話もあるから
間宮中尉の世代は明らかに戦争であり、主人公の世代の話も主人公自体が戦争とした

・救済(?)と書いた理由はクレタは実際逃げているのかもしれない
クレタクレタ島に行き自分の名前を持っていない、”あちらの世界”に行き今までの自分を捨ててしまった成れの果てのように見える
クレタは感じやすい人間→無感動→中間ときていて完全な成長をするのかと思っていたけど最終的には”あちらの世界”に落ち着いてしまったのかなと
主人公にもずっと家にいると危険で一緒にクレタ島に行こうと言うけど主人公はそれを断る
主人公がもしクレタと一緒にクレタ島に行けば、自分のというものをほぼほぼ忘れつつしかしながら、絶対に自分からは、もとの場所からは離れられないので
かなりの時間をかけた遠いところから大ダメージがきていたんじゃないかなと思う
それはもしかしたら物語の先にクレタにも及ぶのでは、、と

しかしながら、そもそも主人公の奥さん(クレタ)(電話越しオナニー女)みたいな関係になってるから実存自体が怪しいが、、、

村上春樹は自明に実存してるはずのもの幻想的な要素を組み込んで自明に幻想的な世界に物理的なリアリティを与えてその世界観の演出が気持ちよすぎる

現実的幻想世界
幻想的現実世界

数学のベン図みたいにこの二つに重なるところが出てきておれらは”何か”を感じることがあるんやと思う

「実際に」「本当に」「現実として」というのは村上春樹作品ではよく強調表現されるけど
真に受けれんよね笑
物語的な演出なのかもしれんがメタ的なことを考えるのは好きじゃないからやめておいて、、



生きて帰りし物語っていうのは典型的な神話プロットのことで行ってきて成長してきて帰ってきますと
村上春樹はこの神話を何回も何回もねじれながら繰り返してると思う


・そもそも全体としての年代記
ねじまき鳥クロニクル自体が2周か3周してる物語って話やったけど
そもそも村上春樹作品の全体が村上春樹クロニクルといえるのでは

”何か”を巡って初期三部作から物語を進めて終わらせてる
ずっと見てるだけのときもあれば
動かされるときもあれば
”あちらの世界”に残る場合もあれば
戦い抜くこともある

カツラ

主人公が女たちを助ける

主人公を助けてくれるのはカツラ作りの女だけ

今までの作品では主人公が女に助けられていたがねじまき鳥クロニクルでは前半部分、主人公が女たちを助けることになる
それも今までの作品の中で一番女性に囲まれていて、あからさまな母性的な女性が多いというのに

思えば序盤から女たちの母性性を主人公はスルーしてたしそこからもう今までとは違ってたんやね

ここからはなかなか人に伝えるのは難しい考察なんやが

まず間宮中尉のエピソードの中に皮剥ぎ拷問愛好家のロシア人が出てくる
間宮中尉は仲間が完全に皮を剥がれて肉丸出しの人間を見てしまう、その後、井戸での神秘体験

ようは、人間の中身的な、暗部??見てはいけないところ?引き返せない人間の闇?みたいものを見てしまう(村上春樹はこういった肝心なテーマの中心部分でそれを指す明確な言葉は使わない、物語である必要性にもつながる)


クレタがワタヤにレイプらしきものをされたときもクレタはなにかを(ワタヤ≒皮剥ぎロシア人というもの、想像力の否定、物語のねじれを語るのに大切)引きずりだされたという
見ようによってはこれは精神的な皮剥ぎ拷問をして中身を出していると見える


間宮中尉が見たロシア人による皮剥ぎ
クレタが精神的に犯された何かの引きずり出し

大事なものはなにかに覆われているというのが大切ということ

そこで主人公のお隣さんの少女がおってその少女は学校に行かずにカツラ会社でバイトしていて物語の終盤にはカツラの製造工場で働きますと
ラストシーンではその少女との会話で終わるんやが
これがけっこうノルウェイの森のラストに似ていて、残された者たちがこれから生きて行くっていうふう見えて

そうして、この少女はカツラを作っている、つまりは人間の皮を作っている

見ようによってはこの少女が物語の間でも最後のシーンでも主人公の保護者やったのかな~って

戦う主人公、助けられる母性的な女性たち、皮剥ぎ拷問、レイプ、カツラ作りの少女っていうのから思った次第でした


これ絶対YouTubeで語るにはややこしすぎるな笑笑笑笑



ややこし次いでに想像の否定についても書いておく

(現実の世界として)間宮中尉はシベリアでの労働期間中に皮剝ぎロシア人を殺せるチャンスが来る
おれがこいつを殺さないといけないと思いたくさんイメージして銃を撃つものの何回も外れ殺せなかった
間宮中尉は主人公に想像してはいけないと忠告する


(想像の世界として)空想のホテルで主人公がワタヤと思われる人間と殴り合いになる
主人公は間宮中尉の忠告を思い出し想像せずに現実的な戦いをして殺す

村上春樹はそれ以前での作品で想像力の重要性を説いていたと思うけど、このシーンでは一種の想像力の否定みたいなことをされているのではって思った
三島由紀夫も文学の大切さ説き、全否定もする)


しかしながら、現実の世界で想像して負けて、想像の世界で想像せずに勝つというこのあきらかな対比もおもしろいな


さすがにだらだら書きすぎやと思うのでいったんこれで一つの記事を区切っておく
まだまだ書きたいことある。。。
きれいにまとめるのが不可能すぎる


書くの忘れてたけど、間宮中尉は想像してしまってロシア人を殺せなかったことで呪いにかかってしまいそれ以降の人生で誰をも愛し愛されなくなる
クレタがレイプされて無感情になったときとのリンク感があるようなないような

とにかもかくにも、村上春樹は”何か”を色んな人物やエピソードで書いていく
それが何かを描くには非常に正直だし正確だと思う
村上春樹のこういった面を人と語ろうとしてもその何かに対する言葉がないし
何かに対して例えばアイデンティティなんていう言葉を当てはめたとしても当てはめた瞬間からもう村上春樹作品のパワーは失ってしまう
ので、村上春樹作品を人と真剣に語るのは難しいと思った


あと、村上春樹のメタファーからするとスパゲティも人物も本当に変わらないと思った
むしろ人物が描く何かは人物である必要性はないかもしれなくて、スパゲティこそ絶対的にスパゲティである必要性があるのでは。。。と

ノルウェイの森だけ読んでた時にめちゃくちゃ貶しまくっててすみませんでした
またひとつ想像の幅がついたと思います