芸術は解決じゃない 空の怪物アグイー 大江健三郎 

個人的な体験で大江健三郎を一度休憩しようと思っててんけど、空の怪物アグイーが個人的な体験のカウンター的な作品ということで偶然手元にもあったもんで読んでしまいました

個人的な体験がハッピーエンドなんで空の怪物アグイーはバッドエンドかと思えばそこまで強烈じゃなくて正直助かった笑
空の怪物アグイーから個人的な体験を読んだ方が読書体験としてはよさそう
やっぱり発表順に読んでいったほうがいいね笑

でも、どう考えたって個人的な体験を先に読んでしまうよなwww
空の怪物アグイーってなんやねんって感じですやん笑

オープニングの

左目はくっきり見えて右目はぼんやり見える
それがぴったり重なるので不安で立ちすくんでしまう
快活な友人の顔に不幸や疲労のかげりが見えたり
日常茶飯の会話を困難な渋滞感につきまとわしてしまうことがある

こういった内容の文章はめっちゃ名文やった



大江健三郎の芸術性の高さに気付き始めた
大江健三郎が書いた評論も最近、二作読んでけっこうあるあるだと思うけど小説家の論理力の高さに脱帽
同じ大江健三郎書いた文章とは思えなくてそれから読む大江健三郎の小説の文章は芸術だと感じれて
言葉と物語から捻出されるぼんやりしたイメージが感じれるようになって気がする

三島由紀夫をよく読んでた時代から自分の美への感受性の力の弱さは感じてて(みんな三島由紀夫の文章は美しいっていうから。。。)
自分はさんざん三島由紀夫について語ってきたんやけど文章の美しさだけは全スルーしてて
今も正直わかってないねんけど笑

大江健三郎の描くイメージの感覚は美しいというかとにかく「芸術っぽいなにか」を感じて受け止めれてるという明確な実感がある

空の怪物アグイーでは途中で中原中也の詩が引用されるねんけどまだ詩への感受性はなくて
このままなくても全然いいと思ってるねんけどあればモアベター的なかんじなんやろなって
詩いいな~~



最近気づいたことに自分は問題があればそれを解決しなければならないという呪縛があるように思った
というのも文学という芸術の側面のひとつは問題があってそれを優れた観察眼と文章で描くというのであって
おれは文学に解決を求めていた節があってでもこの頃は解決がなくてもいいんじゃないかと思えてきた
解決がなくともそれ自体は自己表現として芸術的だし
無理な解決は一般的な常識に収束しそうだし、個人的な体験を個人的な観察眼を持って見たときに現れる問題を突き詰めたときほぼほぼ絶対に一般的な解に収束するはずがない


無理な解決は個人的な感情や体験の否定つまりは自己否定につながる
まちがえたいびつな自分でいい
文学という芸術にふれてよくわかった気がする


これからは連続して動画を作ろうと思ってる、このブログとはノリがぜんぜん違うと思うけど
重大要素を網羅的に抽出して一般解釈を紹介するみたいなのから、不連続的な非論理的な非居酒屋熱弁おっさん的な動画を作りたいと画策中

といっても多分明日村上春樹の本届くねんな。。。
そっち先読んでしまったるかも笑