「ヤングケアラー」と「親ガチャ失敗」の言葉の扱われ方の違い。

先日、ヤングケアラーがツイッター上でトレンドに入っていた。詳しくは調べなかったが、ヤングケアラー側に寄り添う空気だった。
なぜ「親ガチャ失敗」は叩かれて、「ヤングケアラー」は支持されるのだろうか。
いや、「なぜ」と言いつつ理由はわかっていて語感、言葉のラッピングの問題だろう。
もちろん俺も親ガチャ失敗という言葉には抵抗感ある。毒親という言葉すら未だに抵抗感がある。
そして、高価なものを買ってくれないからとただ親ガチャ失敗と書き込んでいる人間もいるのだろう。そいつらは確かに不快だ。(不快だが背後にはなにかあるのかもしれない)
ヤングケアラーと親ガチャ失敗は本質的には同じ意味の言葉だと思う。
、、、

書いていて、気付いたが、ヤングケアラーは子を指す言葉で、毒親、親ガチャ失敗は親を指す言葉だ。
つまり、ヤングケアラーは加害者の親の存在を感じさせない、ただかわいそうな人(被害者)という言葉のラッピングがされていて、開けば毒親(加害者)の存在が現れるという二段構造になっていると思う。
逆の場合は、子(被害者)が表面上には出てないことも注目だ。
外野の人間からしたら、ヤングケアラーという言葉を支持するのが、ただ被害者に寄り添う気持ちになれて気軽なのだろう。
ツイッター上には有象無象のなんの覚悟もない人間がヤングケアラーを支持し、親ガチャ失敗という言葉を叩いていた人間がいるんだろうな。

心からヤングケアラーを支持していた人もいるだろう。ただ、なんとんく全体的に受け入れがたい。俺の心もまた問題なのだろう。


追記2:
最近、内在する母との関係より父との関係が自分にとって大きくなってきた。