「君」と「僕」を「おれ」が見る。

歌うたいのお時間です。
本日の曲は「なごり雪」/イルカ

オリジナル↓
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森基博カバー↓(個人的にはこっちのほうが「ぼく」の声に聞こえて好き)
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森基博も他のカバーもサビで声を張りすぎてるのが納得いかん。
オリジナルはけっこう萎えた感じで歌ってるしそっちの方がいいはず。
特に02:46のラスサビの声が掠れるような演出はやりすぎだ。

汽車を待つ君の横でぼくは
時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
「東京で見る雪はこれが最後ね」と
さみしそうに 君はつぶやく

なごり雪も降るときを知り
ふざけすぎた季節のあとで
今春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった

動き始めた汽車の窓に
顔をつけて
君は何か言おうとしている
君のくちびるがさようならと動くことが
こわくて下をむいてた

時が行けば幼い君も
大人になると気づかないまま
今春が来て君はきれいになった
去年より ずっと きれいになった

君が去ったホームにのこり
落ちてはとける雪を見ていた
今春が来て君はきれいになった
去年より ずっと きれいになった

去年より ずっと きれいになった
去年より ずっと きれいになった

「君」というのは女性を想像し、別れ際のワンシーンの曲なように見える。
そう、それが、、、一般的、、、ですよね?

俺はこの曲が大好きだ。たまに急に脳裡によぎって一日中、頭から離れなくなる日がある。
単純にメロディが好きなんやけど、先日、ふいにちゃんと歌詞を見てみたらすごい良い歌詞だったので、俺が好きなところを紹介する。

まず、俺にとって歌詞上の「君」と「ぼく」は別人でありつつ、同一人物だ。
時が”行き”、大人になった「君」は電車に乗り、「僕」はホームに取り残される。
これは時が自分自身を引き裂いていることだと思う。
「君」はもうふざけることはできないで、大人になり、「ぼく」を残して他者の世界へと入って行く。
残された「ぼく」は取り残されて、落ちてはとける雪を見ている。
このうつむき目線に幼児性と悲しみの感情があるように思う。

そして「時が”行けば”」の表現が最高だ。普通の感覚やと”来れば”にすると思う。
つまり、「ぼく」には時が来ていないということだ。そして、おそらく永遠に来ない。
「時」はおそらく「ぼく」を除いた周りでのみ流れていて、「ぼく」自身は落ちてはとける雪を見続けるのみだ。

この後、たぶん、「君」は「ぼく」の喪失に気付き、探し始めるだろう。
しかし、時に絡めとられた「君」は「ぼく」には会えない。
この曲の背後にはそのような哀しみがあるように思う。

駅のホームや汽車というモチーフはレイモンドカーヴァーでもよく見られる。
川端康成の「雪国」では冒頭、まるで異界に入るかのように、電車でトンネルを抜け、抜けた先、雪の降る世界が描かれている。
レイモンドカーヴァーは喪失やふいの運命共同体のメタファーかのように描かれているが、川端康成は異界への通路かのように描かれている。
なごり雪」の場合はおそらくカーヴァーと同じように喪失のメタファーのように描かれていると思う。
ラカン的に見れば「主体の疎外」と見ることもできるだろう。
列車、時が行き大人になったきみ、残されたぼく、落ちてはとける雪、それぞれをラカンの理論に何にあたるのか考えるのも楽しそうだ。

駅や列車やホームはおれも大好きなモチーフだ。
おれにとっては電車はふいの運命共同体というイメージが強い。
NOTEに書いた小説「駅」もそのような感じもある。
あの小説に書いたことがなにか現実でも行われていようとしている気がしている。
それはまた別の記事で、、

追記:
最近、忙しいというか全体的に散漫としていて、逆になにもできていないような気がする。