昨日は息まいて俺は仕事でかっこをつけるんだと語っていたが、遅刻しかけた。
自転車で通勤しているのだが、途中でチェーンが外れてしまった。カバーがあるため、自分でつけることができず、徒歩で行くしかなかった。
遅刻確定だと思い、急いで電話して五分ほど遅刻すると伝えた。やや早歩きで進んでいると、自転車屋を奇跡に発見しチェーンを入れてもらった。
もたもたはしていなかったがやたらと丁寧な作業で五分ぐらいかかり、かなりそわそわした。
しかも、500円も取られてしまった。多分、大手のチェーン店だと無料でやってくれるだろう。
とにもかくにもチェーンが繋がり大急ぎで向かうと、なんと幸か不幸か間に合ってしまった。こんなことなら遅刻するという連絡をしなければよかった。
そのまま大急ぎで汗だくになりながら打刻が間に合ったことと、あったことの経緯を説明してお騒がせ申し訳ないと謝った。
みんなそんなに急ぐことなかったのにと言っていた。それはそうだろう。こんな汗まみれなやつが居るぐらいなゆっくりと遅刻してきてほしい。俺もそう思う。
ただ、出勤三日目で遅刻したくなかった。本当に災難だ…。
今日も特にこれといった労働もせず、ぼんやりと色んなことを学んだ。
しかし、なんともつまらない職場だ。俺がつまらないやつだからつまらない職場に至ったのだろう。
「つまらない」という感情と向き合ったのは久しぶりな気がする。後述するが宮台真司がその言葉にこだわっていて、おれもおれなりに気がついた。
たしかに、つまらない。
出勤三日目にしてこの職が行きつく先のつまらなさを感じている。
今はまだマシだが、この先のつまらなさはとんでもないだろう。絶対にこの職で終わってはならないと思った。
あまりにもつまらないし、かっこよくな人生だ。
昨日はかっこよさの観点、今日はつまらなさの観点だ。
帰宅後に食事を終え、YouTubeを適当に見ていた。
宮台真司の最終講義というタイトルを見つけ、なんやねんと思い見始めたら、なんかの大学での最後の講義らしい。
いつも通りの宮台真司の主張が並べられていたが、なかなかに俺の思想と似ている。というか俺が宮台真司に似てきた?それやったら嫌やけど、それでも言ってることは全て頷ける。
宮台真司の動画を見ていて気になった言葉は「過剰包摂社会」「人望得る自信、誘惑する自信」「稼業を継がなくなり、お受験が流行り、ママしか褒めてくれなくなる」「さまざまな文脈を持った人たちがいない」「法と掟」だ。
どのワードもおれ個人の体験から話すことができるけど、最近の俺の感じやろ「過剰包摂社会」が一番、気になるというか、いい言葉だなと思った。
宮台真司のお決まりの語り口やが、誰もがスタバに行き、誰もがユニクロで服を買う。そのせいで、行動や服装でその人の文脈や階級がわかるなくなったということだ。
宮台真司はこういったことと、性の寛容化は同時進行だったと言っていた。「無性化」、もしくは権力が見えなくなる化?
権力が見えにくくなってることを察知して俺は「女性化」という言葉にしっくりきているのやろうか。
宮台真司は昔に比べて面白くなくなったと言われているけど、語っていることはぜんぜん棄却できることじゃない。社会のほうはなんも変わってへんし、宮台真司の語ってきたことを正統継承している。
他にも小説家のドキュメンタリーを見た。
井伏鱒二が小説家かなんかから文章執筆のやる気が起きないことについて相談されていて、「自重するからでしょう」「良心を無くせばいい」と白ワインみたいなのを飲みながらさらっと言っていた。
これもなかなかグサッとくる言葉だ。俺みたいな雑なブログ記事書きでもやっぱり一丁前に波があって、どこかで「自重してしまう」ことがある。
これも宮台真司の流れからみると世間様とかみんな視線の権力、規律訓練ということなんやろな~。ひいては自我と自己のバランス感覚だ。(突如、執筆中、25~26時の間、はてなぶろぐのメンテナンスが入り記事が全損するかとびびった)
安部公房のドキュメンタリーでは、「発想のバネ」という言葉が面白かった。バネか~。よくわからんけど、そのバネにいい具合に力を加えたら、弾けてとんでもない発想に至るんやろか。
だとしたら、バネと力の二つがとんでもない発想には必要だ。面白いイメージだと思った。
田中慎弥の共喰いをまた少し読み進めた。今は祭りのシーンに入ろうとしている。
その前のシーンでは主人公の時間感覚が曖昧になりだして、過去なのか現在なのかわからなくなっているシーンがあった。
木村敏の瞬間の時間感覚を思い出した。
というか、こういうことは言葉にしてしまうとチープやけど、純文学の大サビみたいなものなのかもしれないなと思った。村上春樹でも全てが瞬間的に襲来してくるみたいなシーンがある。
割り切れないことのひとつに瞬間があると思う。瞬間は過去から未来の時間軸で割り切れない。その全てが瞬間にありつつ、それでいてどこまで引き延ばしても線ではなく、点である。
瞬間的シーンこそ、純文学の大サビで、自己の発見だ。そこにどう至るかが純文学の俺の中での王道なように思う。
村上春樹の作品も俺はそう読んでいるし、川端康成の雪国もそうだ。あれこそ魔的な時間感覚がありすぎている。三島由紀夫はどうやろか…なにか…うーん。例えば、豊饒の海を思い出してみたけど、春の雪は整然としてるし、奔馬もそう。暁の寺はよくわからんけど、インドのシーンは…それでも違うよな~。天人五衰はよくわからんかったし。なんとなくやけどやっぱり三島由紀夫は投身具合が低いというか、変な感じがないのよな~。
川、釣り、父と母、セックス、暴力、瞬間的感覚、祭り、とまだ読み切っていないが、共喰いは純文学真っ向勝負といった感じがする。
ちなみにノルウェイの森でも物語が始める前の文章で「多くの祭り(フェト)のために」とかなんとか書かれている。
いつもはブラウザではてなぶろぐを開いてそこで書いているが、今はメモ帳で書いている。
これはこれでありかもしれないな。誤操作によるデータ紛失が怖いけど笑
すぐにアップロードできないのがつまらないな~。すぐに読まれなくともすぐにアップロードしたいんや。それがなにか快感となる。
俺が小説を書くとしても、きっと、横書きのタイピングがいいんやろな。
いきなり縦書きにしても、まず、俺に合わへんやろ。ディフォルトのメモ帳でカフカみたいに一夜にして書き上げられたらすごい気持ちいやろな~。
そういえば、カフカの日記の重版はどうなんやろと調べたら、中古の値崩れが始まってた。別にアンチ転売ヤーじゃないねんけどちょっと面白いね。
追記:
思い出した。宮台真司には怒りがある。それが面白い。怒りを知る人間が俺は好きだ。つまらなさを感じれる人間も好きだ。
最近はもうすっかり見なくなったけどゲーム実況者のもこうも「これでキレなきゃ人間じゃねえ」とたしかスイッチを壊してた。
まぁ怒りとキレはまた違うかな。