体罰

昨日の夜にワイン一本飲んだせいで、朝は13時に起きた。
遅いけど、眠りが浅くなって一日中ぼーっとしてしまうよりかはよかった。

保険が代わるため、市役所に行き、国民保険の解約をした。
意外とスムーズに済んでよかった。

帰りに肉屋に寄って牛脂と鶏の中手羽と豚の切り落としを買った。
牛脂は前回はグラム100円だったのに、今回はグラム20円だった。サービスね~と言っていた。
気の固そうな店長やと思ってただけに嬉しいな。また行かないと。

ジムでは二の腕のトレーニングを中心にした。肘と肩にかなり注意しながらしたけど、ほんの少し違和感がある。
レーニング前後にもっとケアをしないといけない。最近はストレッチも怠り気味だ。
カラーテがいたけどあまり話せなかった。カラーテはたぶんジムのスタッフの中で一番人気で老若男女に好かれている。早く辞めることを伝えないと罪悪感がどんどん募る感じがする。
今日にちらっと言葉を交わしたのも、今度の金曜日はボクササイズのやつに来てくれるんですよねみたいな感じだった。なんだかな~。

その後、白髪染めをした晩御飯を食べた。

ここ最近は田中慎弥の共喰いを読んでいる。その前はダイヤモンドダストだったのだが、面白い偶然で二つとも釣りが男性器のメタファーとして使われている。女性器は凍結した湖面の穴と川だ。
糸を垂らして、タイミングよく釣り上げるのが肝要とのこと。早すぎても遅すぎても駄目だそうだ。

俺は33歳の年代の人間で、もういい年齢だが、それでも自分の意思で動けるようにしておきたい。
今の職場のが気に入ったのなら、そのまま全うすればいいが、しがみつかなければならないような状況は避けたい。そのためにもやっぱり有用な資格の勉強はしておくべきだ。

ふと、何気なく思いつきで野球選手の新庄剛志の動画を見た。スポーツ選手の語り動画は好きで有名なやつはほとんど見ている。
新庄の哲学で面白いなと思ったのは「格好をつける」ということだ。
結果に必死になりすぎないで、格好をつけていたら、脱力もできるし、緩急も生まれ、態度の余裕ができ、萎縮しないで、信用されるようになると俺は読み取った。
メジャーでもそういったことで信用を得たのだと思う。
前々回の記事で横柄な態度なぐらいが俺にちょうどいいのだと思うと書いていたが、それは新庄の言うところの格好をつけるということなんだと思った。
俺は自然と生真面目にミスしないで、丁寧に、といった感じで萎縮していく傾向がある。こういう人間は何かを任せられたりしないと思う。

戸塚ヨットスクールの校長がYouTubeチャンネルを開設していて、すこし話題となっていた。
そこでは体罰は基本的に善で、教師の不安からくる体罰は悪だと語られていた。校長自身の学生時代の体罰も巡った価値観も語られていた。
コメント欄では茶化していたり、引いていたり、詳しくは知らないが、戸塚ヨットスクール体罰教育のせいで亡くなった八人のことを出していたりした。

校長が語る言葉の中で「男になる」というのと「怒り」という言葉がひっかかった。
俺は体罰教育を安易に否定しない。
体罰をなくせば、目に見える被害者は減る。しかし、目に見えない、責任者のいない被害者が増えるのでは?という可能性を想像する。
また、現実の基礎は暴力で成り立っている。日本の平和も過去の戦争と現在の武力、核の傘で守られている。暴力性のない男たちで組織された国はすぐに瓦解するだろう。体罰教育は世の暴力に触れる前に少しずつ知らせる役割もあったのかもしれない。
また、先生が「父なるもの」となり、象徴界(人間社会の原理的システム)の担い手として子供に体罰をふるい、そして象徴的に殺され、子供が成人男性となるといった役割もあったのかもしれない。(これを全うできたら正しく聖職だ)

体罰はする側もされる側も象徴界への信頼が必要で、その信頼が瓦解していると、体罰はただの暴力となり、体罰が機能しない世の中になるのかもしれない。
これは戦後からの社会の「女性化」もあると思う。

今日は体罰についてよく考えて、メモをたくさんしたけど、まとまっていなくて、おおまかな項目だけ書いておいた。
特に重要なのは「目に見えない責任者のいない被害者」だ。上辺の平等な社会だとこういう人たちが被害者(弱者)同士で連帯して支え合うこともできずに孤独に死んでしまうことになると思う。
枝葉の被害者や弱者や異端者はしっかりと大きな幹から外されいてこそ、まだ、救いがある。
また、枝葉にしっかりと栄養を送って、幹が疎かになって枯れては本末転倒だ。枝葉も幹があってこそ花が咲くということだ。

俺はいろいろ殴られてはきてるけど、体罰は受けたことないから実際のところはわからんけど、どうなんやろね…。
体罰はそれこそ感情的にしたらあかんと思うけど、体罰を考えるときも感情的にならずに冷静に考えるべきやと思う。

追記:
「怒り」だ。
怒りもここのところずっと考えていたことで、戸塚ヨットスクールの校長が怒りを語っていて驚いた。
村上春樹はデビューのときに全く受け入れられなくて跳ね返されていたらしいけど、いまはなんでも受け入れるみたいな感じがする。
体罰は怒りの情操教育とも見れるか…。
とにもかくにも、怒りのない人間は信用できないのは確かだ。

追記::
大雑把な書き方やけど、体罰は人間の負の側面の教育もあったのかもしれない。
世の中も人間自体も綺麗ごとだけじゃないのは自明だと思う。